324【和歌山紀行】弘法大師 空海によって開かれた開かれた日本仏教の聖地『高野山と金剛峯寺』

日本の世界遺産(Japan Heritage)
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和歌山県の北部、1000m級の山々に囲まれた地に、日本でも最大規模の宗教都市があります。
歴史にもたびたび登場してくるこの都市は高野山であり、空海(弘法大師)によって開かれた真言密教の聖地です。

以前紹介した、弘法大師が今も生き続けている『奥之院』だけではなく、まだまだこの地には見どころがあります。
空海がこの地に入り最も最初に建造に着手した壇上伽藍
そして、真言宗の総本山である金剛峯寺
こういったところも、高野山に訪れたときには外してはいけないポイントですね。
今回は、この2つのスポットに焦点を当てて紹介していきます。
奥之院の紹介記事と合わせてごらんいただければと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 山上の一大宗教都市。都会の喧騒から離れたこの場所は、長い年月の間、修行の場としては最適な場所だったのでしょう。

和歌山に関する記事です。

170【和歌山紀行】1000年以上の歴史ある聖域。溢れる荘厳な雰囲気の『高野山 奥之院』
和歌山県高野山。世界遺産にも登録されているこの地は、空海の開いた、真言宗の総本山である金剛峯寺のある聖域であり、一大宗教都市として形成されています。今回は、そんな高野山一帯の中で、現在も空海が瞑想を続けている地である弘法大師御廟のある奥之院について紹介します。
099【和歌山紀行】大自然の川の中に温泉が!?川湯温泉の大浴場『仙人風呂』
和歌山県にある川湯温泉。古くからある温泉郷ではありますが、ここには自然の川の中に温泉大浴場をつくった『仙人風呂』と呼ばれる温泉があります。川底から自然に湧き出る源泉と、流れてくる清流とを混ぜ、適温な温泉ととして入ることができるわけなのです。
075【和歌山紀行】『真田丸』400年前、真田幸村が蟄居されていた九度山を巡る
1600年の関ヶ原の戦いで敗北した西軍。その西軍の中で活躍した真田幸村。関ヶ原の戦いの後に高野山 九度山に幽閉されることとなりますが、2016年の大河ドラマ『真田丸』を機に、その知名度は向上。そして九度山後も注目されることとなりました。

高野山と金剛峯寺

高野山は和歌山県北部、紀ノ川の南方の海抜820mの場所に位置する、周囲を1,000m級の山々に囲まれた東西5kmと南北1kmの平地の部分であり、『山』の名前ではないのです。
この地には、100以上の寺院が立ち並ぶ巨大な宗教都市であり、真言宗宗祖の弘法大師(空海)が開いた真言密教の聖地です。
そして今もなお弘法大師がこの地に生き続けており、世の中の平和と人々の幸福を願っていると信仰され、多くの参詣者を集めています。

空海が弘仁7年(816)に高野山に入ってから1000年以上もの間は、真言宗の総本山として、高野山全体が金剛峯寺と同義としてとらえられていました。
現在の総本山金剛峯寺は、明治2年(1869)に豊臣秀吉ゆかりの寺院である青巌寺と興山寺を合併し、高野山真言宗総本山金剛峯寺と改称された寺院です。
この際に、元々は高野山全体を指す金剛峯寺という名称が、高野山真言宗の管長が住むこの寺院のことを「金剛峯寺」と称するようになりました。
弘法大師が高野山に最も初めに建立した壇上伽藍の北東部にあります。

高野山は、2004年に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコ世界遺産に登録されています

アクセス

南海高野山ケーブル高野山駅からバスで街の中心部へ移動します。

高野山と金剛峯寺へ行ってみた

それでは高野山と金剛峯寺へ行ってみましょう。

こちらが南海高野山ケーブルの高野山駅です。
ここからバスに乗り換えて町の中心部へ移動します。

総本山金剛峯寺

高野山真言宗の総本山となっている金剛峯寺です。
1869年に青巌寺と興山寺が合併した際に金剛峯寺に改称され、現在に至っています。

山門

山門は、金剛峯寺の建物の中で一番古い建造物であり、文禄2年(1593)に再建されたものです。
往時はこの門を正面から出入りできるのは天皇や皇族、高野山の重職に限られていたそうです。

今現在でも一般の僧侶は右側にある小さな入り口を利用しているそうです。

鐘楼

山門から入ってすぐ右手には鐘楼があります。
鐘楼 – 元治元年(1864)に再建されたと考えられています。

主殿

主殿は、文久3年(1863)に再建された建物です。
檜皮葺の屋根を持つ書院造建築です。
上の写真の大玄関と、右手に進んだところには小玄関があります。
この大玄関は表玄関であり、天皇や皇族、高野山の重職の僧が使用したもので、小玄関は大玄関を使用できないけれど上役の僧が使用しました。
それ以外の一般の僧侶は裏口を使用していました。

主殿の屋根の上には雨水を溜める天水桶があります。
高野山の建造物が悩まされ続けたのは落雷などによる社殿の消失です。
そのため、火災対策のためこのようなものが置かれているのです。
境内で火災発生時には、桶の水を屋根にまいて火の粉による類焼を防ぐ役割がありました。
もちろん現代では、避雷針やスプリンクラー装置など、万全の火災対策が行われています。

狩野探幽作と伝わる梅月流水の襖絵がある梅の間です。
なお、この左隣の部屋は柳の間があり、文禄4年(1595)に豊臣秀次が自刃した「秀次自刃の間」ともよばれている部屋です。

蟠龍庭(ばんりゅうてい)

蟠龍庭(ばんりゅうてい)、昭和59年(1984)に弘法大師御入定1150年御遠忌大法会記念事業として造園された日本最大の石庭です。
全面に京都の白川砂を敷き、聖地四国の花崗岩を使用して龍が表現されている美しい庭園です。

新別殿

元々昭和9年(1934)に建立された別殿がありましたが、昭和59年(1984)に弘法大師御入定1150年御遠忌大法会記念事業の際に、参詣者の接待所として新たに建立され建物が新別殿です。
その内部は、169畳もの広さがあります。

ここでは、金剛峯寺内部有料拝観者には茶菓子が振る舞われるサービスがあります。

真然大徳廟

主殿裏の丘に建つ弘法大師の甥にあたる真然僧正の廟であり、750回忌の寛永17年(1640)に建立されました。
弘法大師の理想を受け継ぎ、高野山大二世として56年間高野山の経営に従事した人物でした。
ここが真然廟であると確認されたのはつい最近のことであり、1990年の解体・修理の際に遺骨が入っていた御舎利器が発見されたからなのだそうです。

台所

台所は現在は使われていないようですが、江戸期以降にここでは大勢の僧侶のために食事が作られていました。

台所には大釜が3基並んでおり、この3基で約2000人分の米を炊くことができるのだそうです。

壇上伽藍/壇場伽藍

弘法大師が高野山開山にあたって、最初に開いた場所でがこの壇上伽藍/壇場伽藍(だんじょうがらん)です。
伽藍とは、僧侶が修行する場を表していており、金堂や根本大塔などの歴史的建造物が多く残されています。

蛇腹道

蛇腹道の名の由来は、空海が高野山を東西にのびる龍に例え、この道が龍の腹付近にあることからこの名前は来ています。

東塔(とうとう)

東塔(とうとう)は1127年に醍醐寺三宝院勝覚権僧正によって創建されました。
現在の建物は1984年に再建されたものです。

根本大塔

根本大塔は、真言密教の修行の中心地であり、887年に日本初の多宝塔として築造されました。
何度かの焼失にあっており、現在の塔は昭和12年(1937)に再建されたものです。
根本大塔は四角の上に円形をした多宝塔の建築様式が取り入れられて、弘法大師が考案したとされています。

金堂(こんどう)

金堂(こんどう)は高野山の総本堂であり、初代の堂は弘法大師によって承和5年(838)造られました。
例に漏れず度重なる焼失にあったため、現在の堂は昭和7年(1932)に造られた7代目のものです。

大会堂(だいえどう)

大会堂(だいえどう)は、安元元年(1175)に鳥羽上皇の皇女五辻斎院頌子内親王が創建しました。
現在の建物は嘉永元年(1848)に再建されたものです。

いかがだったでしょうか。
これで高野山めぐりはばっちり!と思いきや最後の写真のように、高野山の町歩きもこれまた見どころが多すぎてしまうのです。
これはまた次回に続くという形にして、高野山の町の魅力を次はお伝えしていきたいと思います。