329【滋賀紀行】名だたる武将が戦いを繰り広げる舞台、そして浅井長政悲劇の地『小谷城』

百名城/続・百名城(Castle)
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織田信長の妹であるお市の方、そして義理の弟である浅井長政の悲劇の地として有名な小谷城(おだにじょう)を紹介していきたいと思います。
日本の五大山城に挙げられるほど堅牢な山城であるため、織田信長もなかなかここを攻め落とすことができなかったといいます。
実際にこの城跡に行ってみるとその意味が非常によくわかります。

敵からの進撃を容易にさせないように考えて造られた縄張りや、山上から周辺がよく見渡せるようになっている点など、ここがいかに堅牢だったのかというところがよくわかります。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 戦国期の堅牢な山城跡が見事に残る小谷城をめぐり、悲劇の舞台となった地に思いをはせてみよう。

滋賀県の城に関する記事です。

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小谷城

小谷城(おだにじょう)は、滋賀県琵琶湖の東にある山城でした。
ここは織田信長と戦い、最後は滅亡してしまった浅井三代の城であり、浅井長政と妻のお市の方との悲劇の舞台でもあります。
高さが約500mもある山に築かれた巨大な山城です。

大永3年(1523)~大永4年(1524)に築城されたと考えられています。

浅井氏最後の当主であった浅井長政は、織田信長の妹であると結婚し、信長の親戚となって勢力を拡大しました。
しかし、1570年、越前国の朝倉氏と手を組み、信長と敵対することとなります。
姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍とが激突します。
結果として織田信長に敗北すると、浅井長政は小谷城に籠城します。
織田信長はさらに追い詰めようとしますが、小谷城の堅牢さを前にして城攻めを断念します。
そして、すぐそばに横山城を築城し、浅井軍との前線基地とします。

天正元年(1573)に、信長の家臣であった羽柴秀吉が小谷城を攻め上がり、京極丸を急襲して陥落させることに成功。
また、浅井長政と父の久政を分断させることに成功し、追い込まれた浅井長政と久政は自害をし、浅井氏は滅亡します。

小谷城はその後は羽柴秀吉が入りますが、間もなく廃城とされました。

2006年には、日本百名城に選定されました。

アクセス

JR河毛駅から徒歩約25分で登山口に、登山口から本丸曲輪部分までさらに徒歩約25分で到着します。

小谷城へ行ってみた

それでは、小谷城に行ってみましょう。

小谷城の大手道の起点になる『小谷城跡ガイド館 浅井三代の里』に駐車をし、登城を開始しました。

金吾丸跡

登城していくと、金吾丸という出丸が見えてきました。
近江の六角氏が小谷城を攻めた際に、越前の朝倉教景が布陣した場所といわれています。
四段の曲輪と土塁から造られています。

番所跡

当時の小谷城入り口に位置する検問所である番所跡まで到着しました。
ここから各種見どころがたくさんあります。

番所ですでにこの高さがあります。

熊が出没するエリアらしいので注意が必要です。

番所跡を越え、更に城の内部に入っていきましょう。

周辺を眺めると、平地の中に小高い山々がある地形がよくわかります。
どこから敵の襲撃があるかなど確認する意味でも好立地だったのでしょう。

御茶屋跡

番所跡のすぐ上にある曲輪であり、御茶屋という名前がついていますが、主郭の最先端に位置する軍事施設でした。
ここには小規模な御殿があったと考えられています。

カモシカも出没するそうです。
かなりの自然あふれるエリアですね。

馬洗池 御馬屋跡

馬洗池は年中水が絶えなかったとされている池であり、その隣には土塁で囲われた馬屋があったとされています。

御馬屋跡とされているところです。
ここは三方を土塁で囲まれた曲輪であり、本丸を守るために配置された曲輪でした。

首据石

首据石は、黒金門の手前にある石であり、家臣の今井秀信が敵に内通していたためにを神照寺で殺害され、ここに首がさらされたと伝えられています。

赤尾屋敷

浅井氏の重臣であった赤尾清綱の屋敷跡とされている三段構造の曲輪跡です。
本丸近くに建てられているということからも赤尾氏がいかに重臣であったということが分かるかと思います。
ここが浅井長政が自刃した最期の地となりました。

赤尾屋敷跡の奥の方には、浅井長政自刃の地が残っています。
信長の塀に攻められた長政は、出撃したものの本丸に帰ることができず、やむをえず赤尾氏の屋敷に入り自刃したのだそうです。

桜馬場跡

桜馬場跡は、御馬屋跡の曲輪の上方にあり、大広間跡黒金門のすぐ南にあった曲輪です。
南北に細長い曲輪になっており、敵が侵入してきた場合に曲輪上から敵を攻撃できる造りになっていました。

この曲輪には、浅井氏及び家臣の供養塔が建てられています。

黒金門跡

黒金門跡は、本丸大広間に設けられた門であり、鉄の板が打ち付けられた防御性の高い扉であったと考えられています。

大広間跡

大広間跡は、千畳敷とも呼ばれている城内最大の曲輪であり、東西の側面は石垣と土塁が築かれ、両サイドからは敵が回り込めない構造となっていました。
御殿が建てられていたことと井戸や蔵の跡などが確認されているそうです。

本丸

大広間の奥は本丸であり、別名鐘丸ともいわれています。
ここには、北側に櫓を備えた小谷城の中心となる建物が建っていたと考えられています。
彦根城の西の丸にある三重櫓が、元小谷城天守と伝えられています。

本丸から大広間跡をながめたところです。

本丸の横を抜けるとその裏にある大堀切に向かっています。
この大堀切によって。小谷城の主要部は二分されており、この奥には中丸や京極丸といった曲輪がさらに続いています。

本丸からの眺め

本丸から周囲の眺めです。
周辺の山々や、平地、琵琶湖などの様子も非常によくわかる立地です。

小谷城千石歴史資料館

近隣には『小谷城千石歴史資料館』があり、ここに百名城スタンプは設置されています。

いかがだったでしょうか。
日本五大山城の一つに数えられるほどの規模を誇る山城です。
そのためかなり見ごたえのある城跡のため、じっくりと時間を取って城跡を辿っていただきたい場所です。