344【山口紀行】遠く京都にあった将軍邸を山口に再現したといわれる『大内氏館』

百名城/続・百名城(Castle)
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京都よりさらに西に、京都の町を模した町並みがあった。
どこにそのような町が?
と疑問がわいてきますが、実は現在の山口県の山口市にそのような町が築かれたいたのだそうです。
やはり当時から京の都というのは、一種のあこがれの町といったいちづけだったのでしょうか。
そして、当時の武将たちがそれぞれの地域を治めるために重要な拠点としていたのが『』ですよね。
しかし、今回紹介している場所は、城ではなく、京都を模した町並みと合うように、『』として築かれた場所なのです。
今回紹介している大内氏館はそのような館が建てられていた跡地になります。

時代的に考えると、館では周辺からの攻防に耐えられるのか?
と考えてしまいますが、背後に支城を設けたり、館の周囲を平城で用いられる堀や土塁などの防御施設で囲うなどして、その防御性を高めていたのだそうです。

続日本百名城に登録された城の中でもなかなか異色な場所ではありますが、その壮大だった館跡を今回は紹介していきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • まさか・・・まさかの方法でコーヒー豆を採取!?できれば知りたくなかった・・・という気もちも伴う伝説のコーヒー。

山口の城に関する記事です。

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大内氏館

大内氏館は、周防国・長門国(現在の山口県)を本拠とした大内氏の館跡であり、現在はその跡地に建てられた龍福寺の敷地内に館跡が残されています。

大内氏館とは、大内氏24代当主であった大内弘世が山口後に移り住んだときに拠点として築いた居館で、1360年ごろに建築されたのではないかと言われています。

当時としては、拠点と考えると城を建てるとなりそうですが、当時のこの周辺に合った建造物として城ではなく館が建てられたのだそうです。
背後には詰の城(支城)として高嶺城が建てられ、2017年には大内氏館と高嶺城とがセットで続日本百名城に登録されています。

館の規模は四方を160mほどの方形となっており、館としては最低5回は増築を繰り返したのではないかと考えられており、15世紀中ごろには、堀や土塁、庭園なども築かれたかなりの大きな規模の館となっていたようです。

1556年に毛利元就によって侵攻された際に、当主であった大内義長が逃亡したと共に、大内氏館も放棄されました。
大内義長はその後自害します。
現在はその跡地に龍福寺がありますが、こちらの寺は、大内氏館が役目を終えた翌年に、義長の養父であった大内義隆の菩提寺として毛利隆元氏によって建立されたということです。

現在は龍福寺の境内になっていることもあり、元々ここに壮大な館があったということはなかなか実感がわきません。
近年は、寺の中の土塁が確認できる程度であったそうなのですが、昭和34年(1959)に国指定の史跡となったことから発掘作業が続けられており、大内氏館西門や復元土塁、庭園などが徐々に復元され続けています。

今後も発掘が続けられ、徐々に復元が進められていくことになるとは思われます。

アクセス

JR上山口駅から北西に徒歩15分で到着します。

大内氏館へ行ってみた

それでは大内氏館に行ってみましょう。
現在は龍福寺境内となっているので、まずは龍福寺の各種建物が見えてきます。

まずは龍福寺の資料館が見えてきます。
こちらは新しい建物のようでした。

左に見える銅像は大内義長の祖父にあたる大内義興氏の銅像だそうです。

そして、そのすぐ横には龍福寺本堂があります。

龍福寺は1557年にこの地に建てられましたが、実は元々は異なる場所にあり、そこが戦災によって荒廃してしまっていたものをこの地に移して再興したものなのだそうです。

龍福寺は明治14年(1881)に火災にあったためほとんどの建物が焼失しました。
現在残っている本堂は、元々は別の場所にあった興隆寺という寺にあった釈迦堂を移築して、龍福寺の本堂としたものなのだそうです。
移築前の釈迦堂は文明11年(1479)に建てられた建物であり、室町時代の建築の特徴が残る建物なのです。
平成17年から7年余りをかけて保存修理工事が行われ、建立当初の室町時代の姿へと戻されたのだそうです。

龍福寺敷地内の南東部に行くと、大内氏館の遺構が残されているエリアがあります。
ここでは、溝や堀、大きな池のある庭園などが見つかっています。

石組井戸という石を組んでつくられた井戸です。
庭園と共に造られたと韓g萎えられていますが。1500年前半に埋め戻されていたのだそうです。

かなり大きな規模の池泉(ちせん)と呼ばれている池の跡です。

池泉と同時期作られた蔵があったのではないかと考えられている場所です。
せん列建物と呼ばれており、招請したレンガを地面に埋め込んで造られているのだそうです。

復元された西門です。
当時はここは正門ではなく、屋敷の中の区画を仕切るための門であったのではないかと考えられています。
資料を基にして当時の姿を再現されています。

続日本百名城スタンプは、大内氏館から西に1kmほどいったところにある山口市歴史民俗資料館にあります。

いかがだったでしょうか。
ここ大内氏館は、徐々に発掘や復元が進められているということもあり、何年か後にはより見どころの多い場所となっているかもしれませんね。
山口市の中心部にあるということでアクセスは非常に良いところにあるので、山口でこれから注目されている新たな見どころとして足を運んでみてはいかがでしょうか。