376【三重紀行】その石垣の規模や美しさは安土城をも上回ったとされる『松坂城』

近畿地方(Kinki)
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三重県松坂市には、壮大な石垣を擁する城跡が残されています。
今現在は、その上に建造物は残されていませんが、16世紀末から明治にかけてこの場所には三重の天守を持つ城がありました。
その城は、松坂城であり、この地の統べていた平山城でした。

天然の堀と化した阪内川の南に位置し、松坂藩の居城として、後に紀州藩の一領地として江戸時代を通してこの地を治めてきました。

その後の明治になってからは、城内の建築物は失われてしまいましたが、現在も石垣が残されており、城址公園として市民に広く親しまれています。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 築城の名手であった蒲生氏の築いた、立派な石垣の残る城跡を見に行こう。

三重県の城に関する記事です。

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松坂城

松坂城は、1588年に豊臣秀吉の家臣であり、秀頼はもちろん過去には織田信長にも強く信頼されていた蒲生氏郷によって築かれました。
蒲生氏郷は城造りだけではなく、城下町造りにも長けた人物でした。
蒲生氏郷は、もともとは伊勢湾に面した松ヶ島城を拠点としていましたが、更に良い立地であり広い面積を持つ現在の松阪城の場所に城を新たに築きました。
この城を築く時には、松ヶ島城の蓄財の一部が再利用して使われました。

松阪城のつくりは、本丸を中心にして渦を巻くように配置された曲輪が特徴の、渦郭式の造りとなっています。
三の丸から始まり、中心に向かって、隠居丸、二の丸、きたい丸、本丸と曲輪が配置されています。
その中でも本丸は上下二段の造りとなっており、そこに三重の天守がそびえたっていました。
しかし、正保元年(1644)に天守が台風によって倒壊してしまったため、それ以降は再建されることはなく、天守台が残るのみとなっています。

明治に入り廃城令によっては以上となった後は、城内の建物は破却されたり、焼失したりしてしまったため、当時の建造物としては米蔵を残すのみとなっています。

アクセス

JR松坂駅から西に1kmほどの場所にあります。

松坂城へ行ってみた

それでは松坂城へ行ってみましょう。

まずは本居宣長記念館へ向かいます。
ここには、百名城スタンプが設置されていますので、お忘れなく。

松坂城へは、本居宣長記念館の裏にある埋門跡から入っていきます。
あまり込み合っておらず、こじんまりとした城跡の印象もあります。

城域に入ると、さっそく松坂城を象徴する石垣が目に入ってきました。

隠居丸から二の丸の間にある裏門跡です。
渦郭式の城郭であるため、城の中心の周りをぐるぐるとまわりながら本丸に向かっていきます。
姫路城も同様の造りとなっていましたね。

松坂城の本丸は二段の構成となっています。
その二段になっている本丸の、上段へとつながる階段です。

本丸跡に到着しました。

天守台は残されていますが、残念ながら天守は、創建後早い段階で倒壊してしまったため残されていません。
ここから見下ろす光景は、ここに天守が築かれたことがわかる光景でした。

いかがだったでしょうか。
姫路城と同じく渦郭式の城郭であるため、順路通り通っていくと城内の全域を見て回ることができます。
城が造られた地であるだけあり、城跡から見下ろす町並みや伊勢湾の眺め、そして春には桜の名所としても親しまれている松坂城跡。
ゆっくりと石垣の美しい城址を見て回るにはうってつけの場所でした。