396【城あれこれ】このときに、数々の天守が取り壊しにならなければ…。明治時代の廃城令とはなんだったのだろうか!?

百名城/続・百名城(Castle)
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日本には現存する12の天守があるというのを以前特集しました。
もちろん、日本にある城はこの12だけではありませんよね。
日本百名城と続日本百名城に選ばれているものだけでも合わせて200。
そのほとんどは城址や、再建された天守のあるところなどです。

ところが、日本にはまだまだ城はあったのです。
全盛期にはこの狭い国土の中に3000を超す城があったのだそうです。
それがなぜ、今のこのような状態に…。
それにはもちろん理由があるのです。

日本の多くの城たちは、その生き残りをかけて幾度かのピンチを乗り越えてきています。
そんな中で、今回は、江戸時代から明治時代に変わり、明治政府による国家の運営が始まった際に日本国内の多くの城を襲った廃城令について書いていきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 時代とともに変化していった城の役割と、それに応じた造りの変化をたどってみよう。

これまでの城ノウハウの記事です。

377【城あれこれ】そもそも城ってなぜ生まれたのだろうか?もちろんそれには必然的な理由があるのです
日本百名城の88番には少し異色の場所が登録されています。なぜ、このような吉野ケ里遺跡のような環濠集落が日本百名城に?と思ってしまうのかもしれませんが、これこそが城のはじまりであり、城の原型であるのです。
372【城あれこれ】これぞ天下人の証。天下普請で有力大名すら思いのままに
天下を収めた徳川家康によって開かれた江戸幕府は、この織田信長の時代、豊臣秀吉の時代に行われていた各地の大名を使って築城させる事業を発展させ、江戸幕府の行う仕組みとして行いました。これこそが『天下普請』であり、江戸幕府が全国各地の大名に命じて行わせた築城工事のことをいいます。
341【城ノウハウ】城の造られる場所によっても、こんなに用途や造りに違いが!?
どのような城もそこにある意味がわかってくると、城からその地域の歴史にも興味がわいてきます。今回紹介している城づくりについて大切な場所選びのことをある程度分かっていると、城巡り一つとってみても見え方がさらに広がってくるのです。
315【城ノウハウ】城にある様々な建造物って何が何のためにあるのだろう?
当ブログでも幾度となく取り上げている城シリーズ。ほとんどの人は、『城』と聞いて頭の中には豪華にそびえたつ天守を思い浮かべることでしょう。しかし、城とは天守だけでなく、天守も含めた様々な建造物で構成されているわけです。

現代に残る城

姫路城

当ブログでも何度も紹介していますが、近年は日本百名城や続日本百名城をきっかけに城を中心にした町おこしなどが盛んになってきていますね。
そして、現存12天守という、古くから受けつれ続けてきた天守や、往年の城下町の造りがそのまま現代の街づくりの基盤になっていたり、城めぐりはやり始めたら終わりを知りません。

しかし、現在では文化財保護の意識が非常に高く、どこの城や城跡も丁重な扱いを受けることができ台となっていますが、日本国内の城たちは、これまでに幾度かの存続の危機を乗り越え、現在その姿を私たちに見せてくれているわけなのです。

江戸城

まず、最初の大きな危機は、江戸時代に行われた一国一城令だったでしょう。
これは江戸時代が日本を完全にコントロールするために、それぞれの地域を治める城を集約したり、新たな築城や増改築を勝手にできないようにしたりしたことなのです。
このときに、日本全国で豊臣秀吉時代の最盛期に3000以上もの天守が存在していたところ、その90%以上がなくなり、170ほどにまで激減してしまったのだそうです。

そして次に訪れたのが、今回紹介して明治時代の廃城令です。
この時は、それまでの藩が県となり、各地域にあった城は陸軍省の管轄となって、軍として必要である場合は軍事施設として存続、不要であれば民間に払い下げられたり取り壊されたりされました。

丸岡城

最後に訪れた危機が太平洋戦争です。
戦前までは20基の天守が存在していたものの、そのうちの8つが戦争末期(1つは失火によるもの)に被害を受け、戦後には12しか残っていない状態になったようです。

このように大きく3つの危機を乗り越えた城跡たち、そして12の現存天守
いかにいま私たちの目の前に残っていることが奇跡なのかがわかりますね。

明治の廃城令とは?

廃城令(正式には、全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方)は、明治6年(1873)に明治政府において陸軍省に発せられました。

先んじて行われていた廃藩置県により、各地の城は全て陸軍省の管轄とされることになります。
それは、新たに富国強兵を進める日本にとっては貴重な軍用地の確保のためであり、城のあった広大な敷地に軍の施設を設けていくためでした。
ところが、その段階では200近い城が残っていたものの、全て陸軍省が管理運用していくことは大変です。
そこで、軍の施設として転用し活用できる城は存城処分として残し、不要な城は廃城処分として、地方自治体に払い下げられたり、取り壊しとなってしまったのでした。

田丸城

この時に廃城となった城が150余り。
その多くは地方団体や学校敷地など、広い敷地が必要な施設になったことが多かったようです。

そして、天守についてはその多くが信じられない価格で払い下げられてしまいます。
しかし、その払い下げられた中で、史跡としての価値を見出されて民間で管理されてきたものや、再び地方が買い取るなどして保存するなど、城の歴史的価値が認められるにつれて、その管理方法などが見直されてきました。
そうはいっても、現存天守の中にも売却や取り壊しなどの予定があったものもあり、それらが今もなお残っているのは、時の運ということもあったのかもしれません。
また、門や櫓などは移築されて、寺院で活用されたりといったこともあったようでした。

廃城令によって存城処分とされた城には、二条城や大坂城、名古屋城など、その後になって天守が再建されたような有名どころが多くあげられます。

二条城

そして、廃城令の際に廃城となった城の中にも、現存天守の犬山城や、日本百名城・続日本百名城に選定されている奈良県の高取城や出石城などもあります。
なにはともあれ、明治から150年余りを経て、城の価値が改めて見直され、百名城事業などその価値を時代へつないでいこうとする動きが出てきたことは何よりなのではないでしょうか。

出石城

いかがだったでしょうか。
日本の城や城跡がいかに巨大な危機を乗り越えてきたのかがわかったでしょうか。
そして、日本に残る数多くの城址が、苦難の時代を乗り越え、また注目を集め始めたのは何よりではないでしょうか。
最盛期には3000以上もあったとされる日本の城。
もしかしたら、みなさんの住んでいすぐそばにもその痕跡が残っているかもしれませんね。