399【岐阜紀行】関ケ原の戦いで西軍の石田三成の本拠地となった城『大垣城』

百名城/続・百名城(Castle)
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時は1600年、天下分け目の関ヶ原の戦い
今でこそ、その後の時代の行く末を決めたこの戦いは、関ヶ原で起こった歴史的な出来事として認識されています。

ところが、今回紹介している岐阜県にある大垣城はその関ヶ原から東に15kmほどいったところにある城です。
そのため、石田三成率いる西軍はこの大垣城に入り、ここを中心にして東軍と西軍との大きな戦いが繰り広げられると考えられていたのだそうです。
東軍の総大将であった徳川家康も、東を流れる揖斐川を使ってこの城を水攻めする作戦も内内で進めていたのだそうです。
西軍の本部隊が関ヶ原へ移動したため、戦いの舞台は関ヶ原となりましたが、関ヶ原の戦いによって派生した争いによって、その後一週間大垣城は戦いの舞台にもなったりしているのです。

そんな少しの歴史の掛け違いがあれば、誰もがその名前を知っていた結果になっていたかもしれない大垣城。
残念ながら、現在その知名度は抜群とはいえないですよね。
しかし、実は戦前まで天守が現存していた、戦火にさえ巻き込まれなければ現存天守として残っていたかもしれないところでもあります。
現在は、その天守の形をできる限り現在に残そうと、復興天守が設けられています。

184【ピックアップ】日本百名城・続日本百名城 戦前まで天守が現存していたお城ピックアップ6選
日本百名城・続日本百名城で、今回は戦前まで天守が現存していた括りで紹介していきたいと思います。戦前まで天守が残っていた城は、全部で8か所あるのですが、そのうち6か所をピックアップして紹介していきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 歴史の中心になったかもしれない大垣城。往時の姿をできる限り再現した天守をもつ大垣城へ行ってみよう。

岐阜にある百名城の記事です。

335【岐阜紀行】織田信長をはじめ名立たる武将が拠点とした山上にそびえる城『岐阜城』
街の北部にそびえる金華山(稲葉山)の山上に、岐阜の町を見下ろし、その威光を城下の者たちにこれでもかと見せつけている城があります。これこそが、天下布武をめざした織田信長が一時期は自らの居城としていた岐阜城です。

大垣城

岐阜県にある大垣城は、天文4年(1535)に宮川安定によって築城されたとされています。
別名では巨鹿(きょろく)城、糜(び)城とも呼ばれています。

大垣城のある大垣の中心地には、古くから東大寺領が広がっていました。
しかし一説には明応9年(1500)に竹腰尚綱が造ったのではないかともいわれている城です。
現在の大垣市内を流れている水門川を北側と西側の天然の外濠として利用していますが、創建当時は濠と土居(土塁)を築いただけの砦でした。
その後は、16世紀後半になって城郭の整備や三階建ての天守の造営などが行われました。

その後大垣城は織田信長や豊臣秀吉によって重要視されたため、そういった人物と関わりの深い一門の人物が歴代の城主として置かれるなどしました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には、西軍を率いていた石田三成が大垣城を本拠地としました
当初は、この大垣城が東軍西軍の天下分け目の戦場となると考えられていたのだそうです。
関ヶ原の戦いでは大垣城が主戦場となることはありませんでしたが、同日から一週間にわたって大垣城の戦いがあり、その戦いの結果開城された戦いも起こりました。

関ヶ原の戦いが終わり、江戸幕府による統治が始まると、それまで幾度も城主が入れ替わってきた大垣城には、寛永12年(1635)に譜代であった戸田氏鉄(うじかね)が入城し、大垣藩10万石を治めました。
戸田治世の間に隅櫓や城門の整備、石垣や枡形虎口、横矢などの敵襲に備える設備が整備されました。
また、三階建てだった天守は四階建て層塔型天守に改築され、城漆喰総塗りごめ様式でした。
また。外濠の周辺に武家屋敷や町屋を配置するなど城下町の整備を行ったことで近世的な城郭となりました。
戸田家はその後明治になるまで11代続きました。

大垣城は昭和11年(1936)に艮(うしとら)隅櫓と共に国宝となっていたのだそうですが、昭和20年(1945)の空襲によって焼失してしまいました。
現在建てられている天守は昭和34年に再建され、平成22年(2010)にその外観が戦災前のものに近づける改修が行われており、現在の外観は往時そのままの造りになっているのだそうです。

2017年には、続日本百名城に選定されました。

アクセス

JR大垣駅から南に600mの位置にあります。

大垣城へ行ってみた

それでは大垣城へ行ってみましょう。
大垣城はその堀のほとんどは埋められており、もともとは城域だったところも戦後の開発開発によって様々な宅地などが設けられたことによって、現在大垣城として残っている範囲はかなり小さくなってしまっています。

天守西側にある城西広場から天守に向かいます。
早速目の前には、戸田氏鉄公の騎馬像があります。

櫓門を越えて本丸に入っていきます。

敷地内は非常にコンパクトなので、本丸に入ると早速天守が見えてきます。

こちらが大垣城の天守です。

そしてこちらが、戦争による消失前の大垣城です。
このオリジナルの外観をできるだけ再建しようとしたことが伺えますね。

復興天守ですので、内部は博物館になっています。
訪れたときにはなぜか花の慶次のキャラクターの展示が多数置かれていました。
何か大垣城との関係があるのでしょうか。気になります。

大垣城が改修によってその外観が変わっていったことについて解説がありました。

大垣城の戦いの様子のようです。
本丸周辺は堀で囲まれていた様子が分かります。

最上階からは大垣の街を眺めることができます。

それでは東口に向かっていきたいと思います。

東口には、現在の大垣城の正門として使われている東門があります。
しかし、ここにはもともとは門はなく、現在の東門は本来ここにあったものではありません。
上の写真の門は、南の外濠に設けられていた柳口門をここに移築したものです。

東門から出て左に行くと、敷地の隅に再建された隅櫓である艮(うしとら)隅櫓があります。
上の写真は、艮隅櫓の下半分です。

この本丸を囲む道は、おそらくはもともとは堀だったところを埋め立てたものだと思われます。

さらに本丸に沿って周囲を歩いていくと、水の手門跡があり、ここからも敷地内に入ることができます。

いかがだったでしょうか。
三重県にもまだまだ魅力的な城が多数残されています。
日本百名城そして続日本百名城をきっかけにして、こういった城が全国的に注目され始めたことは、非常に喜ばしいことですね。