日本百名城・続日本百名城のピックアップ第9弾です。
今回はピックアップした5つの城は、山上にある山城であり、雲海に浮かぶ光景などが有名な天空の城を選んでみました。
某CMによって、一躍天空の城として日本中にその名が知れ渡った、兵庫県にある竹田城。
ほとんど観光客のいなかったこの城ですが、今では驚くほど人が訪れるようになり、それに伴って周辺の開発も一気に進んだ城です。
しかし、天空の城はここだけではなかったのです。
15~16世紀に多く造られた山城。
その中にはまだまだこれから注目されそうな天空の城があるのです。
今回も、これまでに行った百名城(43/100)及び続百名城(27/100)の中から、天空の城を5つピックアップして、ダイジェストの形で紹介してみたいと思います。
個々に紹介する記事も別で書いていきたいなと思っています。
百名城・続日本百名城ピックアップ記事です。








竹田城(日本百名城)

どこにあるの
兵庫県朝来市和田山町竹田古城山にあります。
どんな城

竹田城は、兵庫県朝来市にある山城の城跡です。
1431年中期の室町時代に築城されたといわれています。
築城当時には現在のような石垣はなく、曲輪を重ねたものだけだったそうですが、その後の天正~慶長初期のころに現存の城郭に整備されたということだそうです。
竹田城では、応仁の乱での争いの場になったり、戦国の世の時に戦いの場になったりとした城跡です。竹田城が管轄していた生野銀山をめぐり、ここ戦いが繰り広げられたこともあったとのことです。
そんな竹田城ですが、関ヶ原の戦い後、江戸幕府により1600年に廃城とされています。
廃城から約400年経ちますが、南北400m、東西100mもの規模を誇り、今もほぼそのままの状態で残る石垣は壮観です。
竹田城の石垣は穴太積みと呼ばれる技法であり、一見粗雑に見えるが非常に水はけがよく、今日まで崩れを防ぐことができている機能的な積まれ方なのだそうです。

おすすめポイント

竹田城は近年、日本のマチュピチュとして一躍有名になった城ですね。
2006年には日本百名城へ登録され、その後2013年のGoogle CMで取り扱われたことで爆発的に年間訪問者数を増やし、3万人ほどだった年間訪問者数が、60万人ほどまで増加したそうです。
近年は城の周辺だけではなく、城そのものも整備が進み、見学路の設置や安全面での改修などを経て、誰もが訪れやすい城となっています。
竹田城を有名にした雲海を見たい場合は、竹田城ではなく周辺の山から見る必要があります。
いつも見られるわけではなく、運も必要ですのでチャレンジしてみてください。
備中松山城(日本百名城)

どこにあるの
岡山県高梁市内山下にあります。
どんな城

備中松山城は岡山県標高430mにある山城です。
現存十二天守の中で唯一の山城の天守です。
元々は、天守のある場所からさらに奥にある標高470mに、1240年に築かれたとされる大松山山頂にあった大松山城跡が、備中松山城の創始の場所と伝えられています。
現存するものは、1683年に修築されたとされる近世備中松山城(小松山城)であり、江戸時代から残る天守や二重櫓、土塀の一部などが現存しています。
1240年に建造が開始され、その後城主は江戸時代を通じて多く入れ替えがありました。
しかし、江戸時代には大きな戦がなかったため、普段の藩政を行うには山城ではなにかと不便があったため、主に藩政は山麓の城下町にて行われていたようです。
明治に入り廃城令が公布され解体される方向となりますが、山城であり不便な立地から、建物は解体されずに放置され、かなりの荒廃具合であったようです。
昭和に入り、天守修復に向けた動きが始まり、1941年には天守をはじめ櫓などが国宝に指定されます。
2006年には日本百名城にも登録され、現在に至ります。

おすすめポイント

山城である備中松山城は、近年非常に有名になってきている竹田城に負けず劣らずの雲海の中に城が浮かぶ天空の城なのです。
しかも竹田城とは違って、天守が現存している事でもあり、天空の名城ともいわれています。
雲海に天守が浮かぶその姿は、日本のマチュピチュ竹田城とはまた違った趣があります。
黒井城(続日本百名城)

どこにあるの
兵庫県丹波市春日町多田にあります。
どんな城

黒井城は、建武2年(1335)に現在の兵庫県丹波市にある山城跡です。
足利尊氏に従軍していた赤松貞範によって築城されたのではないかと言われており、その後120年間赤松家によって統治されていました。
その後は、荻野氏、赤井氏と城主が変わり、赤井時代に織田信長配下であった明智光秀によって落城されます。
明智光秀によって攻略された赤井城には、重臣であった斎藤利三によって統治されれることとなりますが、本能寺の変後の山崎の戦いによって明智光秀が失脚した後は、羽柴秀吉家臣の堀尾吉晴が入りますが、その後江戸時代を目前にして250年の歴史に幕を閉じたと考えられています。
黒井城は2017年に続日本百名城に選定されています。

おすすめポイント

竹田城からも非常に近くにある黒井城。
こちらも負けず劣らずの素晴らしい天空の城なのです。
しかも、竹田城と比べるとまだまだ知名度が低いため、自分が訪れたときも人っ子一人おらず。
1人で天君の城を堪能し放題です。
しかし、その低い知名度のためか、山上にたどり着くまでの道はまだまだワイルドです。
だれにでも開かれた易しい山道にはなっていないので、そこは注意が必要です。
ところが、天空の城がブームであること、2020年の大河ドラマで明智光秀が取り上げられたことなどから、おそらく自分が訪れたときよりかは訪れる人は増えているのではないかと思います。
赤木城(続日本百名城)

どこにあるの
三重県熊野市紀和町赤木にあります。
どんな城

赤木城は、三重県にある2017年に続日本100名城に選ばれた平山城跡です。
平山城であるため、ここまで紹介してきた3つの城と比べると高さはありません。
赤城城は、1589年頃に豊臣秀長の配下であった築城の名手とよばれている藤堂高虎によって、この地域の一揆を押さえる目的のために築城されました。
築城の目的が他の城とは少し違うのですね。
熊野の地域では、豊臣秀吉によって平定されたのちに、北山一揆(天正の一揆/慶長の一揆)がおこりました。
1586年の太閤検地に反発したとされる天正の一揆では、豊臣秀長によって制圧されたのちに、配下の藤堂高虎によって多数の農民が斬首されました。
1614年には、新宮の領主浅野氏に対する不満から怒ったとされる一揆が起こりますが、こちらも浅野氏によって制圧され、最終的に残党である360名余りが処刑されています。
尾根を利用して築かれた中世山城の様相と、高く積まれた石垣や虎口のつくりなどに見られる近世の築城法が併用された、貴重な城郭です。
築城当時の原型をここまで残した城跡は、全国的に見ても少なく貴重なものなのだそうです。
その後、赤木城は1615年に江戸幕府による一国一城令により廃城となったといわれており、築城からわずか26年間という短い期間この地に存在していた城なのです。

おすすめポイント

赤木城ですが、前述の通り周辺の一揆を制圧するために築城された城であり、他の有力者同士の戦いに備えて造られた城ではないため、そもそも築城された場所も高い山上ではなく、平山城となっています。
しかし、実はここでは秋から冬にかけて雲海が見られるのです。
天空の城ブームといえば、雲海に浮かぶ城というのがポイントですが、この赤城城も竹田城などに比べると規模は小さくなりますが、同じように天空の城を見ることができる隠れたスポットなのです。
米子城(続日本百名城)

どこにあるの
鳥取県米子市久米町にあります。
どんな城

米子城は、室町時代に山名宗之により砦として築かれたことがその始まりといわれています。
その後、砦から石垣を備えた本格的な城へと整備され、近世城郭として戦国時代末期の天正19年(1591年)頃に、吉川広家が湊山を中心にして築城します。
その築城のさなかに何度か城主が変わり、最終的には慶弔7年(1602年)頃完成したといわれています。
更に何度も城主が変わり江戸時代をむかえます。
江戸幕府による一国一城令が発布されるものの、例外として米子城は保存されることとなり、寛永9年(1632年)からは、鳥取藩主席家老の荒尾成利が米子城預かりとなり、以後11代にわたって荒尾氏が預かり管理をしました。
明治維新後に城は払い下げられ、建物は取り壊されましたが、石垣などは現在もその姿をとどめています。
米子城は2017年には続日本百名城に選定されました。

おすすめポイント

米子城は、それほど高さのある場所にあるわけではありませんが、中海沿いにある標高約90mの湊山頂上付近に、重の天守閣と四重の副天守閣(四重櫓)の天守を構え、北の内膳丸、東の飯山を出丸として配し、湊山ふもとには二の丸・三の丸、それらを中海から水を引きこんだ二重の堀で囲まれた構造となっていました。
天守跡からは中海や日本海、市街地を一望できる好立地であり、この地に米子城が残され続けてきた理由がよくわかります。
そして、周辺からもその山上にそびえる米子城の姿はまさしく天空の城であり、「山陰随一の名城」とも呼ばれる壮麗な城であったそうです。
いかがだったでしょうか?
今回もこれまで訪れた日本百名城・続日本百名城の中から、天空の城を5つをピックアップしてお伝えしました。
まだまだこれら以外にもおすすめしたい城はたくさんあります。
第10弾以降もご期待ください。