三重県の伊勢本街道の沿いの山奥、そこにかつて南北朝時代に、吉野朝廷と呼ばれた南朝の忠臣であった北畠氏が、拠点とした館と城があります。
そこを北畠氏館及び霧山城と呼びます。
南北朝が統一された後、北畠氏は伊勢国司守護大名として室町時代を生き抜き、北畠氏八代の本拠地となります。
京や大阪からも遠くにあるにもかかわらず、栄華を誇った北畠氏館ではありましたが、織田信長の天下布武の動きの中で約240年の幕を下ろします。
そんな北畠氏館のあった跡地には、現在北畠神社があります。
現在はどんな遺構が残っているのか、実際に見に行ってみたいと思います。
というわけで、今回のわきみちは、
三重にある百名城の記事です。




多気北畠氏城館
北畠氏館(多気北畠氏城館跡)は、南北朝時代から戦国時代にかけて、多気の地を治めた大名であった北畠顕能によって築かれた居館であり、北畠江家の本拠地でした。
現在はその跡地は北畠神社となっています。
続日本百名城に選定されている多気北畠氏城館跡は、北畠氏館跡と西背後にそびえる北畠氏館詰城、背後の山頂にある霧山城を含めた構成となっています。
北畠氏館は15世紀末〜16世紀初頭に現在の位置に造成されたと考えられており、周囲を川と山裾で囲まれた天然の要害に守られた立地に設けられています。
日本中世の城や館では日本最古と考えられている石垣などが設けられたことも特徴です。
北畠氏館跡の石垣は、館跡の上段と中断の境に石垣が設けられており、現在この石垣は、長さ15m、高さ3mほどのものが見つかっています。
調査の結果では、石垣の全長は80mにも及ぶ壮大なものだったのではないかと考えられています、
背後の山頂にある霧山城跡は、城館からさらに240m程の高さにあり、館跡の詰城を含めて14~15世紀に築城されたと考えられています。
そのような北畠氏館でしたが、北畠氏8代にわたりその本拠地として活用されたものの、天正4年(1576)に養子として迎えた織田信雄によって北畠具教が暗殺され、廃城となります。
アクセス
JR名松線の伊勢奥津駅からバスで北畠神社前まで行きます。
多気北畠氏城館へ行ってみた
それでは多気北畠氏城館(北畠氏館)へ行ってみましょう。

多気の地域は、大阪から伊勢に向かう伊勢本街道沿いにあり、北畠神社のある場所は、現在は上多気と呼ばれる地域にあります。

こちらが北畠神社の鳥居です。


先に進むと社務所があります。
北畠氏館跡庭園見学をしたい場合はこちらに問い合わせればよいそうです。


こちらが北畠神社です。
思っていたよりカラフルな神社です。


北畠氏館入口跡です。
館跡の上段と中断の境に設けられた石垣に階段状の入口の跡が発掘されています。
館の中央部分にある階段である古都から、館跡上段へとつながる入口として考えられています。

北畠館と造営した伊勢北畠氏の祖である北畠顕能氏の兄、北畠顕家公の銅像が敷地内にはあります。

銅像のすぐそばには、北畠顕能公歌碑があります。
南北朝時代、南朝の安泰を祈って詠まれたものだそうです。

こちらが日本の城館跡で最も古いとされる石垣跡です。
15世紀前半に築かれたとされている石垣です。
この場所の石垣は、守りのために築かれたのではなく、館跡上段をより厳かに見せるために設けられたのだそうです。


こちらは舘の礎石建物跡です。
北畠氏館跡でには、礎石建物と呼ばれる石の上に柱を建てていた礎石の跡が、数棟分確認されています。
こちらもその中の一つです。


敷地内にある末社 留魂社(北畠神社末社)です。

いかがだったでしょうか。
今回や霧山城にまでは足を延ばしていませんが、今回紹介した館跡と、背後の詰城及び霧山城を合わせて、多気北畠氏城館となっています。
山頂まで足を延ばせば、まだまだ見どころの多いこの場所。
中世期の映画を誇った城館跡をぜひ堪能してみてください。