どの業界にも匠と呼ばれる方々はいるもので。
もちろん築城技術の分野についても秀でた人物がいるのです。
その2大人物とは、加藤清正と藤堂高虎です。
おそらくその名前は聞いたことがあるのではないでしょうか。
築城技術は本当に多岐に渡る才能と努力が必要なことです。
縄張りを考えることはもちろん、築城する地形や地質についての理解、防御面を高めるための様々な工夫、外観にまで気を配ることができる美的感覚、荷重計算や購買計算などの学術面、そして何よりも築城に関わる多くの人々を動かすことができる力です。
それだけのものを兼ね備える人物、となると現代でもそう簡単に見つけることはできません。
しかし、今回名前を挙げている人物は、そうした必要不可欠な要素を満たした結果、今日でも彼らの仕事の跡が私たちの目の前にまだ残っているのです。
いうわけで、今回のわきみちは、
築城名人とは
最盛期には日本国内に3000もあったとされる城の数々。
もちろんそれら一つ一つには築城に関わった人物いるわけわけで。
どんな業界にも、名人と称えられる人物がいるように、築城に関しても名人と称えられる歴史的に有名な人物がいます。
今回は、織田信長・豊臣秀吉に関わった城を造った加藤清正、徳川家に関わった城を造った藤堂高虎の2名について紹介していきたいと思います。
加藤清正とは
加藤清正は、そのルーツを辿ると豊臣秀吉と遠縁になる人物でした。
織田信長亡き後、秀吉と柴田勝家とが戦った賤ヶ岳の戦いなどでは秀吉を支え、秀吉が天下統一を成し遂げる一翼となった人物でもあります。
加藤清正は子どもの頃から秀吉に仕え、秀吉の家臣として頭角を表していくとともに、築城技術を磨いていきました。
そんな加藤清正が築城した城の代表格が、熊本城です。
敵の侵入を防ぐために敵兵が直進できないようになったり、侵入してきた敵を横から徹底的に攻撃できる造りが加藤清正の築城の特徴です。
また、その石垣の造りも特徴的で、石垣の裾から上がっていくにつれて勾配がきつくなり、開いた扇のように反り返る扇の勾配とも呼ばれる清正流石垣でも知られています。
敵がこの石垣を登ろうとしても途中で落ちてしまう武者返しの構造となっています。
その他にも、九州の名護屋城や、江戸城、名古屋城などの築城にも関わっています。


藤堂高虎とは
藤堂高虎は、もとは浅井長政や豊臣秀長などに仕えながら、築城技術を高めていきます。
豊臣の秀吉の家臣でもありましたが、秀吉の死後は徳川家康に認められ、徳川家に関わる城づくりを手掛けました。
藤堂高虎が設計に関わった代表的な城が、伊賀上野城、篠山城、津城といった城の数々です。
それまでの時代の城と比べると、無駄のない作りで、シンプルながらも防御力の高い設計であることが特徴だそうです。
石垣の造りは加藤清正のものとは異なり、直線的に組まれていることが特徴です。






いかがでしたでしょうか。
今回は城を造った人物にフォーカスを当ててみました。
普段とは違う視点に着目して城を見て回るというのも、また面白い着眼点でしょうね。