434【広島紀行】広島を襲った悲劇。原爆を原因として倒壊してしまった『広島城』

百名城/続・百名城(Castle)
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日本には現在、現存する十二か所の天守があります。
以前紹介したように、戦前まで天守が現存していた城がほかにもありました。
しかし、太平洋戦争の特に最後の一年、ここで日本本土に膨大な空襲が繰り返されたことにより、そこまで残っていた貴重な天守が灰と化してしまいました

今回紹介している広島城もそんな太平洋戦争の終結直前まで残っていた天守を持った城です。
ご存じの通り広島城の天守は、1945年8月6日の広島への原爆投下による影響で、崩壊してしまいます。
それまでは、安土桃山時代末期の貴重な天守や櫓などが現存していたことを考えると、日本の文化財保護の観点から見てもとんでもないことをしてくれたものです。

そんな広島城ですが、現在は天守が再建されており、広島の市民の方々によって親しまれる憩いの場となっているのです。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 約400年の歴史のある城跡と、そこに残る太平洋戦争の爪痕も見ながら、広島城がたどってきた歴史を見に行ってみよう。

広島にある百名城の記事です。

405【広島紀行】新幹線からもその姿がよく見える、アクセス抜群の『福山城』
日本国内には、戦前まで天守が現存していた城特集がありました。8つある城の中で今回紹介しているのは福山城です。山陽新幹線で岡山から広島の間、新幹線からもその天守がよく見える福山城は、アクセス面でも抜群の城なのです。
026 【広島紀行】アクセス抜群の三原城跡♪しかし、なぜこんなことに…??
続・百名城にはクセのある、みどころたくさんの城が多数掲載されています。今回紹介する城は、おそらくここ以上に駅からのアクセス抜群の城はないだろう、という城です。

広島城

広島城は毛利輝元が1589年から築き始めた城です。

毛利輝元はそれまでは郡山城を居城としていましたが、新しい城づくりを進めるうえでこの地に広島城を造りました。
広島の地は、元々は三角州の上に築かれており、非常に軟弱な地盤であることから、築城はかなりの難工事であったようです。
築城にあたっては、豊臣秀吉がつくった大阪城や京都の聚楽第を参考にして、造られたそうです。

10年経ち、1599年に完成しましたが、西軍大将であった毛利輝元は1600年の関ヶ原の戦いに敗れ、徳川家康の命令によって転封され広島を去り、萩の地に移動させられます。

その後は広島城には福島正則が城主となりますが、江戸幕府に許可を取らずに増改築に取り掛かったということで幕府に領地を没収され転封となってしまいます。
1619年からは、和歌山城の城主であった浅野氏が入城し、明治維新まで広島城の城主とつとめました。

広島城は、太平洋戦争末期の8月6日、アメリカ軍による原子爆弾投下の破壊目標地点となり、江戸時代から残されていた天守や櫓などが倒壊しました。
近年の研究では、原子爆弾の衝撃波により、城の下部が上部の重さに耐えられなくなり自壊したということがわかってきたのだそうです。

1958年に天守は再建され、現在に至ります。
また、2006年には日本百名城にも選定されました。

184【ピックアップ】日本百名城・続日本百名城 戦前まで天守が現存していたお城ピックアップ6選
日本百名城・続日本百名城で、今回は戦前まで天守が現存していた括りで紹介していきたいと思います。戦前まで天守が残っていた城は、全部で8か所あるのですが、そのうち6か所をピックアップして紹介していきたいと思います。

アクセス

市電の場合、紙屋町東・西から北へ徒歩約15分。
アストラムライン(新交通システム)の場合、県庁前駅、城北駅から徒歩約12分で到着します。

広島城へ行ってみた

それでは広島城へ行ってみましょう。

広島城駐車場は三の丸に設けられています。
ここからは端を渡って二の丸、そして本丸へと向かいます。

表御門

こちらの橋を渡ったところにあるのが、二の丸の入口にある表御門です。
これは平成元年に復元されたものです。
元々は約350年の間現存していた門だったのですが、原爆の影響によって焼失しています。
復元された表御門も、もともとあった礎石の上に昔通りの後方によって造られています。

二の丸

二の丸は本丸までの途中に設けられた郭です。
広島城の二之丸は、石垣と建物に囲まれ、外側から内部が見えにくい構造になっています。
また、本丸からはその内部が見えるようになっており、防御機能を考慮して設けられた郭であることがわかっています。
馬出の機能を持つ郭となっており、そういった造りが他の城郭などとくらべると特徴的な配置になっていっるのだそうです。
そしてここには、表御門だけではなく、太鼓櫓といった建物が現存していたのだそうですが、全て原爆によって倒壊し焼失しています。

二之丸には、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓が復元されています。

こちらは、二の丸にある被爆樹木であるユーカリです。

こちらは、二の丸から本丸へつながる橋の上に立つ、被爆樹木であるマルバヤナギです。

本丸

そして、本丸へやってきました。

まず見えてくるのが、廣島護國神社です。

その廣島護国神社のすぐそばには、

戦時中の、中国軍管区司令部 防空作戦室という壕が残されています。
ここには半地下式の防空作戦室があったようで、軍人や軍属、学徒動員された女学生たちが働いていました。
原爆の爆心地から700mにあるこの場所からは、辛うじて残った軍事専用電話と使って、ここで働いていた女学生が広島の壊滅を通信したといわれています。
これが広島の原爆被災が外部に伝えられた第一報であるのだそうです。

そして、本丸内を北上していくと、本丸の北西の角に天守があります。
本丸の北西角にあるため、周囲からは非常に目立つ場所に天守があります。
防御力の高い曲輪の構成になっている広島城ですが、なぜこのような場所が天守台となったのでしょうか。
もともとは、現在残っている本丸周囲の内堀の外にも外堀があったため、必ずしも防御面で脆弱なものではなかったようです。

こちらが広島城天守です。
外観が茶色い板張りとなっている特徴的な天守ですね。
再建されたものとは思えないほどの雰囲気を醸し出している天守です。

スタンプは天守閣1階ミュージアムショップにあります。お忘れなく。

天守からの眺めです。

上の写真の中央には、原爆ドームが見えます。
このことからも爆心地から以下に近い場所に広島城があったのかがよくわかります。

こちらは天守再建の際に礎石の原型がそのままこちらに移されたものだそうです。
現在の天守台の天守下に埋もれる礎石位置を表しているそうです。

いかがだったでしょうか。
広島城が、江戸・明治・大正・昭和と長い時代を生き抜き、原爆の後も力強く再建されてこの地にあり続けてきたことが分かったでしょうか。
自分が訪れたとき、ちょうど8月6日近くのとても暑い日でした。
1945年のあの日も、このような暑さの日だったのでしょう。
広島城に訪れたときは、受け継がれた北歴史を感じるとともに、平和に対する思いもしっかりと考えながら見学をしていきたいですね。