日本には数多くの城があるのですが、現在天守が現存しているものとなると12か所。
その他は、再建された天守があったり、城跡があったりするだけになっている場所がほとんどです。
ところが、今から400年以上前、豊臣秀吉の時代までの最盛期には、その数全国に3000以上にもなったそうなのです。
しかし、時代が江戸時代に入り、江戸時代が行った一国一城令によって、その数は170ほどにまで激減してしまったのだそうです。
その後は、明治時代の廃城令によってそのほとんどが廃城となり、

後の太平洋戦争によって貴重な現存していた天守などが焼失するなどし、現在天守まで残る城は12か所という惨状となってしまっています。

では、過去に日本の城を襲った数々の危機の中で、最もその大半の城が失われてしまった一国一城令とはなんだったのでしょうか。
というわけで、今回のわきみちは、
一国一城令とは
徳川家康は1603年に江戸幕府を開き、新たな治世を始めます。
しかし、もとは豊臣方であった有力な大名などがまだ残っていた中で、江戸幕府がとった政策のほとんどは、各地の有力者から幕府に反抗するだけの力を削ぐことでした。
そのために幕府は、ありとあらゆる策を実行に移していきます。
例えば、どの大名にどの地域をおさめさせるかです。
徳川家に近い大名は江戸の近くに置き、徳川家から遠い大名は遠く離れた場所にするなどです。
また、天下普請といういまでいう公共工事的なものを、大名負担で行わせることで、戦力増強に費やされる資金を断とうともしました。
また、城の増改築も許可なく行うことはできなくしていました。
修繕工事すらも江戸幕府の許可が必要だったのだそうです。
このように江戸幕府の行った政策は一貫して江戸幕府による完全なるコントロールができるようなものなのでした。
今回紹介している一国一城令もその一環で、二代将軍秀忠の時代に実施されたのです。
具体的にどのような内容なのかというと、それぞれの大名が治める地域ごとに城は一つとし、それまで築城され続けてた支城などは造ってはいかん!というものでした。
また、新たに造ってはいかん、というとともに、これまで存在していた城も、大名が居城として使うもの以外は破却するように命じられました。
この令が出されたことにより、まあまあ例外はあったものの、ほぼ全ての地域に対して実施され、日本国内にあった90%以上の城が廃城となったのでした。
一国一城令は、上記のような理由とともに、大名同士の争いを防ぐことと、領地内に複数の拠点があることによって、大名家内の争いが発生することも防ぐ目的もあったようです。
一国一城令後に造られた城
一国一城令後、新しい城が築かれることはなくなったのですが、その中でも以下のような例外の城があります。
その立地を見てみるとわかる通り、西国監視の意味で設けられた城が多いことがわかるでしょう。
それだけ江戸幕府にとっては、西国の大名たちをどのようにおさえるかは、幕府の存続にかかわっていたであろうことが伺えます。


福山城や明石城といった城のほかにも、尼崎城なども一国一城令後に設けられた城なのだそうです。
いかがだったでしょうか。
今回は江戸自裁に行われた一国一城令についてとりあげましたが、江戸幕府の大名たちのコントロールの徹底ぶりが伺えますね。
こういった、細かなところまで手を入れたことが江戸幕府がこれだけ安定して長い間続いたことにつながっていったのでしょう。