日本百名城・続日本百名城のピックアップ第10弾です。
今回ピックアップした5つの城は、沖縄にある城(グスク)です。
沖縄は且つって琉球王国と呼ばれた日本とは違う国でした。
そのため、城の造り自体も本州などにある城とは異なる構造をしているのです。
今回も、これまでに行った百名城(43/100)及び続百名城(27/100)の中から、沖縄の城を5つピックアップして、ダイジェストの形で紹介してみたいと思います。
個々に紹介する記事も別で書いていきたいなと思っています。
百名城・続日本百名城ピックアップ記事です。









首里城(日本百名城)

どこにあるの
沖縄県那覇市首里金城町にあります。
どんな城

首里城は、沖縄県にある城であり、かつて琉球王国時代にその国王のグスク(城)であった場所です。
沖縄本島では、100年近く北山・中山・南山の3つの勢力が拮抗しあう三山時代が続いていました。
しかし、1429年に中山王であった尚巴志によって統一がなされて、琉球王国が誕生しました。
その造りは日本と中国との中継的な位置にいた琉球王国らしく、日本らしい装飾が見られる一方で中国の建物の雰囲気も感じられる造りとなっています。
正殿を中心に建物が設けられています。
正殿前の右側にある南殿では、薩摩藩の役人などをむかえたり、日本式の儀式を行う場であったため、日本の建築様式になっています。
一方で、左側にある北殿は中国からの死者を迎える建物であったため、中国様式の造りとなっています。
2000年に、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。
2006年には、日本100名城にも選定されました。
琉球王国は、1879年日本に組み入れられるまで約450年続きました。
ところがその後、太平洋戦争の空襲や地上戦により正殿は破壊されてしまいます。
正殿は1992年に復元され、周辺の建物群も徐々に復元されていき、2019年には御内原も復元されたことによって、首里城の全域が復元されたのですが、2019年後半に火災に見舞われてしまい、正殿をはじめ多くの建物が焼失してしまいました。

おすすめポイント

こちらは御内原から見た光景ですが、この約半年後にここに見える正殿群は焼失します。
現在は再び復元作業を行っているのですが、今の期間しか見ることができない遺構があるのです。
復興の様子が公開されているだけではなく、首里城の地下遺構もガラス越しに見ることができるようにされています。
今帰仁城(日本百名城)

どこにあるの
沖縄県国頭郡今帰仁村今泊にあります。
どんな城

今帰仁城跡は、本部町のすぐ東の本部半島今帰仁村にある歴史的なグスク(城)跡です。
ほぼ、本部町と今帰仁村の境ぐらいにあります。
今帰仁城の歴史は古く、築城時期は13世紀~14世紀であるといわれています。
15世紀前半には、現在と同じ広さにまで拡張されました。
7つの郭で構成された城であり、沖縄県内でも最大級の城です。
当時の沖縄本島は北部の北山、中部の中山、南部の南山がそれぞれ勢力を誇示した『三大勢力が争ったグスク時代』でした。
その三大勢力のうち北山の王の居城だった城でした。
北山王は今帰仁城を拠点に中国との貿易を積極的に行い、北部のやんばる地域一帯を支配下に治めていました。
しかし1416年(1422年)に中山の尚巴志によって滅ぼされました。
それ以降は、北山には監守が置かれ、旧北山エリア統治のために引き続き使用されましたが、1609年の薩摩軍による琉球侵攻によって、城が炎上し、1655年に監守一族が首里に引き上げるまでは使用され続けていたということです。
以後は祭祀の場として残っていたということでした。
2000年には、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として首里城など他の8か所と共にユネスコの世界文化遺産に登録されました。
2006年には、続日本100名城にも選定されました。

おすすめポイント

今帰仁城には、昔の登城道が残っています。
岩の谷間を利用した道であり、ここが元々の城までの道だったらしく、かなり歩きにくい状態でした。
中城城(日本百名城)

どこにあるの
沖縄県中頭郡北中城村大城にあります。
どんな城

中城城は、アーチ門で有名な沖縄の城です。
この城は、琉球王国時代の築城名人であった護佐丸という人物が改修したとされている城で鵜s。
後述している勝連城の城主であった阿麻和利の勢力に対抗するために、琉球国王によって15世紀に現在の姿へと拡張された城です。
この城は6つの郭が並んでおり、その上に木造の櫓が乗った造りになっていました。
2000年に、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。
2006年には、日本100名城にも選定されました。

おすすめポイント

中城城で有名なものというと、北の郭にあるアーチ門です。
このアーチ門は、沖縄の城だけで見られる特徴的な形状ですが、見た目の美しさと共に、堅牢性でも知られている形状です。
この美しいアーチ門は、幕末に沖縄を訪れたアメリカのペリー提督によっても、その美しさと技術力の高さがほめたたえられたといわれています。
座喜味城(続日本百名城)

どこにあるの
沖縄県中頭郡読谷村座喜味にあります。
どんな城

座喜味城(ざきみぐすく・ざきみじょう)は、沖縄県中頭郡読谷村にあるグスク(城)跡です。
中城城と同じく、15世紀初頭に護佐丸によって築かれたといわれる城です。
14世紀から15世紀初頭までの琉球は、沖縄本島を統一する勢力が存在せず、南部の南山(山南)、中部の中山、北部の北山(山北)の三つの国が拮抗しあう三山時代(さんざんじだい)と呼ばれる時代が約100年間続いていました。
中山の尚巴志が1416年に北山を、最終的に1429年に南山を滅ぼし、琉球統一を成し遂げたことで三山時代は終わりを迎えます。
三山時代を経たその後の琉球は、安定期に向かっていきます。
このころに登場するのが座喜味城であり、琉球王国前期の国の安定のために、迫りくる敵を迎撃しやすい構造となっている重要な城でした。
座喜味城で特に印象深い場所が、二の郭の城門に用いられている沖縄最古のアーチ門です。
座喜味城門のアーチには楔石が用いられており、沖縄の中のアーチ門では古い形態と考えられています。
1972年に沖縄が日本復帰以降は、座喜味城は国の史跡に指定され、13年にも及ぶ調査・発掘を経て現在の形に整備されました。
2000年に、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。
2017年には、続日本100名城にも選定されました。

おすすめポイント

座喜味城跡には、沖縄戦そして、アメリカによる占領時代の痕跡が残されています。
座喜味城は、周辺を見渡せる高台にあり、沖縄の戦略的に重要な位置にありました。
そのため、沖縄戦の際には日本軍の高射砲陣地として利用され、城内にはその時に用いられた場所が今も残されています。
そういった用途で使われていたため、1944年の10月10日に米軍による十・十空襲の猛攻撃を受け、大部分が破壊されてしまいました。
戦後は米軍によって接収され、米軍のレーダー基地建設のために、城壁やアーチ門の多くが破壊されました。
現在は修復されていっていますが、貴重な史跡が戦争のために使われたという負の歴史を目の当たりにする場所でもあるのです。
勝連城(続日本百名城)

どこにあるの
沖縄県うるま市勝連南風原にあります。
どんな城

勝連城は沖縄県うるま市にある城趾です。
丘陵に作られており、全体的に曲線状の形の城になっています。
一の曲輪から三の曲輪までが階段状に連なっており、だんだんと標高が高くなっていきます。
元々勝連城は、14世紀初頭に築城されたといわれています。
琉球王国が安定していく過程で、国王に最期まで抵抗した、中城城の紹介でもその対抗勢力として名前の出てきた按司の阿麻和利(あまわり)の城として有名です。
阿麻和利は、海外との貿易で力をつけた力を以て琉球の統一を目論むものの、1458年に逆に王府によって滅ぼされ衰退していきました。
2000年に、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。
2017年には、続日本100名城にも選定されました。

おすすめポイント

勝連城の見どころは、最も高い一の曲輪から眺める風景です。
実際訪れたときは、ここから選管の様子を見ることができました。
戦略的にもなかなか重要な場所だったのではないかと予想できます。
また、中城湾や金武湾。それらを囲む山々や離島、海中道路なども一望でき、日本百名城である中城城跡もが一望できます。
景色を楽しむ目的でも十分楽しめます。
いかがだったでしょうか?
今回もこれまで訪れた日本百名城・続日本百名城の中から、沖縄の城を5つをピックアップしてお伝えしました。
まだまだこれら以外にもおすすめしたい城はたくさんあります。
第11弾以降もご期待ください。