451【城あれこれ】やはり日本の城を代表するであろう、城の歴史も変えた三英傑が居城とした城。

百名城/続・百名城(Castle)
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戦国の三英傑といえば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ですね。
ドラマ・時代劇などでもよくとりあげられるこの三英傑ですが、もちろんそれぞれに天下統一のための拠点を持っていました。

織田信長でいうと、滋賀県にある安土城
豊臣秀吉でいうと、大阪府にある大坂城(大阪城)
徳川家康でいうと、東京都にある江戸城

これらは、彼らが目ざす新しい時代のために、それぞれに工夫を凝らし、特徴を持った城々になっているわけです。
では、それぞれが拠点とした城は、どのような特徴のあった城だったのか、今回は書いていきたいと思います。

いうわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 戦国から天下太平へ。それぞれの生きた時代を反映した3つの日本を代表する城・城跡を見に行ってみよう。

これまでの築城に関する記事です。

418【城あれこれ】築城名人によって造られた城。その築城技術には、やはり目を見張るものがあるようで。
どの業界にも匠と呼ばれる方々はいるもので。もちろん築城技術の分野についても秀でた人物がいるのです。その2大人物とは、加藤清正と藤堂高虎です。おそらくその名前は聞いたことがあるのではないでしょうか。
377【城あれこれ】そもそも城ってなぜ生まれたのだろうか?もちろんそれには必然的な理由があるのです
日本百名城の88番には少し異色の場所が登録されています。なぜ、このような吉野ケ里遺跡のような環濠集落が日本百名城に?と思ってしまうのかもしれませんが、これこそが城のはじまりであり、城の原型であるのです。
372【城あれこれ】これぞ天下人の証。天下普請で有力大名すら思いのままに
天下を収めた徳川家康によって開かれた江戸幕府は、この織田信長の時代、豊臣秀吉の時代に行われていた各地の大名を使って築城させる事業を発展させ、江戸幕府の行う仕組みとして行いました。これこそが『天下普請』であり、江戸幕府が全国各地の大名に命じて行わせた築城工事のことをいいます。
341【城ノウハウ】城の造られる場所によっても、こんなに用途や造りに違いが!?
どのような城もそこにある意味がわかってくると、城からその地域の歴史にも興味がわいてきます。今回紹介している城づくりについて大切な場所選びのことをある程度分かっていると、城巡り一つとってみても見え方がさらに広がってくるのです。

織田信長の居城 安土城

まずは、何もかもが革命的であった織田信長です。
現在の愛知県西部の終わりというところの武将であった信長ですが、東へ西へとその影響力を広げていき天下統一を目指しました。
ところが、家臣であった明智光秀の裏切りにあい、本能寺の変によって倒されてしまいます。
そんな信長の安土城は、安土城前と安土城後で城そのものの構造に大きな変化が起きた城なのです。

織田信長は、元々は愛知県にある小牧山場や岐阜城を拠点としており、堅牢は石が高い石垣で囲まれた城造りを行っていました。
そして、天下統一も見えてきたころ、琵琶湖の南に、安土城を築城し始めます。
安土城がそれまでの城と最も異なるところは、豪華絢爛な天守を高い石垣が囲む新しい発想の城を造ったことなのでした。
五重六階地下一階の巨大な天守であり、天守の最上部は金箔に塗った瓦を使った屋根や壁など、とにかくその権力を象徴する城でした。

この安土城の誕生によって、城そのものの意味合いが変わっていきます。
元々は戦うという目的のために建てられた城でしたが、自分たちの力を見せつけ誇示するという役割を持たせるようになったのです。
城主が力を持っていれば、それに比例した城を建造し、相手を威圧する効果も持っていました。

信長はこのように、安土の山頂と麓に城主の生活空間を造り、それを取り囲むように多くの家臣の屋敷を配置しました。
さらには、その外側に城下町を配置し、そこでの商取引が活発になるように税を免除するような仕組みを導入して、町全体を活気づける仕組みなどを考えて実践しました。

416【滋賀紀行】それまでの城と、ここからの城との大きな転換点となった、天守そびえる織田信長の夢の跡『安土城』
これまで数々の城や城跡を見てきましたが、一つの山にこれだけの規模の城を造ったのは、やはり織田信長だけではないでしょうか。天下統一を目前にして散った織田信長。その信長が、造り上げた天下人の住まう城が安土城なのでした。

豊臣秀吉の居城 大坂城

織田信長を倒した明智光秀は、信長の家臣であった豊臣秀吉によって倒されます。
その後信長の天下統一に向けた動きを引き継いだ豊臣秀吉は、もともとは身分の低い武士の子でした。
しかし、信長の家臣となり、自らの命の危機も顧みず努力を続けたことによって、最終的には日本全国を統一し天下人となります。
そんな秀吉が新たな拠点として城から町造りまで手掛けたのが大坂城でした。

信長は安土城を建造するにあたって、それまでとは異なる新しい発想で城づくりを進めました。
その家臣であった秀吉はその城造りを受け継ぎ、安土城をこえる城を造って新たな天下人は自分であることを見せつけるために大坂城を造りました。
五重六階地下二階で、黒い漆で装飾された真っ黒い天守に、金色の装飾が映える城でした。
秀吉時代の大坂城は、その後の大坂夏の陣で焼け落ちてしまいますが、徳川時代に再建され、現在は昭和時代に再建された天守となっています。

秀吉は天下統一した後は、全国各地に家臣たちに大坂城を参考にした和歌山城や、会津若松城のような豪華絢爛な城を次々と築いていきます。
また、秀吉は晩年に大陸にあった明を攻めるための足掛かりとして朝鮮出兵を進めます。
その際に、家臣であった加藤清正に九州北部に名護屋城をを造らせました。
この戦いの際には全国から大名がこの地に集められたため、秀吉が進めてきた築城技術はこの時に広まっていったのだそうです。

徳川家康の居城 江戸城

徳川家康は、豊臣秀吉の死後、豊臣家から天下を奪い取り、天下人としてその後の江戸時代を創り上げた人物です。
幼少のころから今川氏の人質となったり、信長や秀吉の配下で動きながら天下人となる機をうかがっていました。
様々な苦難を乗り越え天下人となった家康は、62歳の時に江戸の地に幕府を開き、その後200年以上続く天下太平の時代の基礎をつくりました。

そんな徳川家康が幕府の拠点として造ったのが江戸城でした。
関ヶ原の戦いに勝利した家康は、豊臣氏から権力を奪い、全国各地を大胆に大名替えを行うことで、新たな領地や城がつくられ、江戸を中心に徳川を守るために新たな配置となりました。
また、まだ影響力が残っていた豊臣氏と対峙するために、東海から近畿にかけて彦根城や伊賀上野城、名古屋城などの城を設けることで、豊臣包囲網を作りました。

その後1603年に征夷大将軍となり江戸幕府を開くと、将軍にふさわしい豪華で立派な城として江戸城を造ります。
家康の築城した天守は、大坂城と正反対のしっくいで塗られた真っ白い天守が特徴でした。
また、広大な敷地に鉄壁の防御力を持った城でもありました。

しかし、家康はその後すぐに隠居し、静岡県の敦賀に駿府城を改修して住まうことになります。
江戸城天守自体は、初代家康、2代目秀忠、3代目家光と、それぞれが天守を建てますが、1657に明暦の大火によって焼失してしまったのちは天守が再建されることはありませんでした。
時代はすでに天守は必要のない時代となっていたのです。

095【東京紀行】耳を疑った、「江戸城ってどこにあったの?」 ここにあったのですよ!
東京と言えば古くは江戸。江戸といえば江戸城ですよね。しかし、現在東京に住んでいる方々。江戸城の場所って知っていますか?先日テレビに出ていたタレントが、江戸城が現在どうなっているかを知らずに仰天しました。今回は江戸城跡、現在の皇居から、江戸城の遺構を見つけていきたいと思います。



いかがだったでしょうか。
天下を目ざした、天下を勝ち取った三英傑それぞれの城を見てきましたが、それぞれやはりその時代を代表する人物の居城であるため、共通していえることは豪華絢爛であるということでした。
大坂城以外は現在は天守は残されていませんが、その跡地からだけでも、いかにそこが重要な拠点だったのかが伝わってきます。
日本を代表するこの3つの城郭。ぜひ訪れてみてください。