478【大阪紀行】太閤豊臣秀吉が造った城と城下町…って、そうじゃないの??実は地元の大阪人も意外と知らない『大阪城(大坂城)』

百名城/続・百名城(Castle)
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東日本を代表する城郭といえば、江戸時代に徳川幕府が置かれた江戸城でしょう。
200年以上もの間、日本の中心となった場所ですので、その規模もすさまじいものがあります。

では、西日本を代表する城郭といえば?
それは、間違いなく大阪城ではないでしょうか。
太閤豊臣秀吉が整備し、氏が拠点とした大阪城。
大阪は太閤さんがつくった街や!!

と、大阪の人は言うのですが、厳密に言うとそうではないのです。
現在建っている大阪城は、豊臣秀吉の時代とは縄張りも大きく変わっていますし、天守も違うものですし、天守の位置も実は違うのです。
実は大阪在住の人でも知らない人が多かったりします。

現在の天守は3代目であり、初代天守、2代目天守とも外観の異なる復興天守です。
では、豊臣秀吉の物だったと思っていた大阪城ですが、どういった経緯があって今のような形に収まることになったのでしょうか。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 城郭の中には、歴史のヒントが盛りだくさん。日本を代表するくらい有名な城であるにもかかわらず、まだまだ謎も多い大阪城へ行ってみよう。

大阪の城に関する記事です。

314【大阪紀行】羽柴秀吉の紀州征伐の拠点。近隣には謎の古城も『岸和田城』
今回紹介している岸和田城も大阪を代表する名城であり、日本百名城の選考過程でも終盤まで残っていた城なのだそうですが、日本百名城には大阪からは『大阪城』と『千早城』が選ばれたため、惜しくも落選してしまいます。
304【大阪紀行】その高低差はくじけそうになるほど…。南北朝時代の城『千早城』
大阪の南、千早赤阪村に残る千早城です。鎌倉末期から南北朝時代にまでの時代に活躍した楠木正成によって築城された山城で、四方を天然の要害に囲まれた地形を生かした戦法や、藁人形を使って軍勢をカモフラージュするような奇策など、様々な戦法を駆使して大軍を追い返すことに成功した城なのです。
216【大阪紀行】天然の要害である三好山から見下ろす戦国時代の山城『芥川山城』
今回紹介するのはそんな大阪の地にあった芥川山上という城です。以前紹介した飯盛城が、実は三好長慶による三好政権の中心地であったように、芥川山上もその三好長慶が飯盛城に移る前に居城としていた、大坂の地にあった城の中でも最も大規模だったといわれている城なのです。
176【大阪紀行】最後は、畿内の有力大名だった三好家の居城『飯盛城』
かの有名な戦国の三英傑である織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が、天下を統一していったことは有名ですが、実は信長よりも前に転嫁を取った天下人がいたのです。その人物は、三好長慶であり、その三好長慶が拠点とした城が今回紹介する飯盛城なのです。

大阪城(大坂城)

大阪城は現在の大阪市中央区にある城です。
明治時代までは大坂城でしたが、その後大阪城に改められました。

大阪城の建つ場所は、上町大地の北端にあり、かつてはその周囲を海に囲まれた場所でした。
またこの場所には、織田信長の時代には城郭はなく、石山本願寺という寺があった場所であり、10年以上もの長い間、織田信長と対峙した場所でした。
現在でも石山本願寺が建っていたと思われる場所には碑が建てられています。

織田信長没後、豊臣秀吉によってこの地に大坂城が建てられました。
初代天守は現在の物とは外観は全く異なり、一回り小さく黒漆が塗られていた黒い外観でした。
そのため、大阪は太閤秀吉によって造られた町だ、というイメージにつながっています。
しかし、初代大阪城天守は、1614年の大坂冬の陣、そして1615年の大坂夏の陣によって豊臣秀頼を自刃に追い込んだことにより豊臣家が滅亡した際に、消失してしまいました。
わずか31年間だけ存在していたのです。

その後、江戸幕府2代将軍である徳川秀忠の天下普請よって大坂城は徳川の城として改修が行われます。
天守はもともとあった場所から西の場所に再建され、豊臣秀吉時代の石垣や郭などは埋められ、その上に新たな二代目大坂城天守が建造されました。
その際に、大坂の陣によって荒廃してた城下町も再建されていきます。
武家屋敷エリア、商家のエリア、寺社仏閣のエリアと、計画的に秀吉時代につくられていたま街並みを基に、大坂城代となった松平忠明によって、現在に続く商都大阪の原型が造られます。
そんな二代目天守ですが、築城から40年後に落雷によって焼失します。

そして現在三代目天守は、1931年の昭和時代に二代目徳川時代の大坂城が建っていた天守台の上に建てられた鉄筋コンクリート製のものです。
しかも、その外観は初代天守と二代目天守に忠実なものではなく、秀吉時代の大阪城の要素や、江戸城の要素などが取り入れられた復興天守です。
皮肉なことに、この三代目天守がこれまでで最も長い歴史のある天守になっています。

長らく大阪の人々からも、現在の大阪城が秀吉時代の物だと思われていたのですが、大阪城公園内内から豊臣秀吉時代の遺構が発掘されていくにしたがって、だんだんとその歴史が知られるようになってきています。
本丸の天守前では、豊臣秀吉時代の石垣が発掘されており、現在天守の東側では、豊臣時代の天守台の場所の整備や、豊臣時代の石垣を常時見ることができるような施設などを設けることが計画されており、近い将来多くに人々がそれを見ることができるようになるでしょう。

大阪城では、天守以外にはも石垣の上にずらりと櫓が建ち並んでいたと考えられています。
そして江戸期から残る櫓や焔硝蔵、金蔵、千貫櫓や乾櫓といった13の建物が今もなお現存しています。
また、その石垣や堀も有名であり、本丸東側の石垣は日本一の30mもの高さを誇ります。
それ以外にも、重さ約130トンもある巨大な蛸石など、築城に当たった大名たちが自分たちの力を誇示しあったと考えられている巨石がたくさん残されています。

アクセス

地下鉄であれば、天満橋駅、谷町四丁目駅、大阪ビジネスパーク駅、森ノ宮駅からすぐにアクセスできます。
また、京阪の天満橋駅、JR大阪環状線の大阪城公園駅、森ノ宮駅と様々なアクセス方法があります。

大阪城へ行ってみた

それでは大阪城に行ってみましょう。

西日本を代表する城郭だけあって、敷地内に入ってから天守までかなり遠くなっています。
こちらが現在の三代目大阪城天守です。
基本は二代目の徳川時代の天主を参考に造っているそうですが、最上階は壁が黒く塗られ、金色の虎が描かれるなど豊臣時代の天守をイメージしたものにしているのだそうです。

天守に到着する前、本丸前の郭には石山本願寺の推定地の碑が建てられています。

古くは、石山本願寺時代に大坂には広大な地内町が造営されており、このことが後の大坂の街並みの原型になったと考えられています。
石山本願寺は織田信長と対峙し、顕如の時代に信長との石山合戦に敗れたことで石山本願寺を退去し、京都方面へ本拠を移転することになります。

後に豊臣秀吉が石山本願寺跡に大坂城を建設することになるのですが、織田信長がもし健在であったとするならば、同様に大阪の地に城郭を建造していたのかもしれません。
秀吉によって大規模な土木工事が行われ地形的にも大規模な改造が加えられましたが、後の徳川時代にもさらに大規模な土木工事が行われ、現在の大阪城へとつながっています。

こちらが大阪城の入口になります。

現在の天守が三代目であることの説明がありました。

天守から敷地内を眺めています。
天守の北西方面です。

こちらは天守の北側にある極楽橋付近から内濠を周回する黄金の和船「大阪城御座船」です。
大阪城のお濠めぐりができるということで人気です。

こちらは天守の前にあるミライザ大阪城です。
大阪城は、太平洋戦争中は軍による施設が多数設けられていました。
このミライザ大阪城ももともとは、1931年に造られた陸軍第四師団司令部庁舎でした。
その後は長らく大阪市立博物館として利用されていましたが、現在は商業施設となっています。

大阪城からは遠く生駒山もよく見えます。

こちらは大坂冬の陣までの大阪城の縄張り図です。
当時は何重もの堀に囲まれた城郭であり、徳川勢も攻略が困難な城でした。

ところが、大坂冬の陣を和睦で終わらそうと提案した後、大坂城を守る堀などのほとんどを埋めてしまった徳川勢。
その後どうなるかは容易に想像ができてしまいますね。
大河ドラマで有名になった真田幸村の真田丸もこの際に解体されてしまいました。

大阪各地には、大坂の陣の痕跡が今もなおたくさん残されています。

大阪城の歴史

ここから紹介する資料は、ミライザ大阪城前の工事用仮囲いに描かれていた大阪城の歴史資料となります。

こちらが豊臣期の大阪城です。
現在の縄張りよりかは一回りほど小さい様子です。
天守台の位置も現在の物より東側にありますね。
昭和59年に見つかった豊臣期の石垣が将来的には公開予定となっています。

こちらが徳川期の大阪城です。
豊臣期の城郭はすべて埋められてしまい、その上に設けられました。
現在の大阪城の縄張りとなっています。

初代豊臣天守と二代目徳川天守の比較です。
高さもかなり異なっていました。
また、豊臣期の地盤がどの程度埋められてしまったのかもこの図からよくわかります。
現在の城郭の地下深くには、豊臣期の地盤が埋まっているのですね。

豊臣秀吉の建てた大阪城天守です。
今とは異なり、真っ黒な外観が特徴的ですね。

大坂夏の陣の際に、城内から火の手が上がり、大坂城は焼失してしまいます。

その後に徳川秀忠によって、豊臣期とは全く異なる新たな大坂城が設けられます。

しかし約40年後に落雷によって天守は無くなってしまいます。
その後、270年近く、大坂城には天守はありませんでした。

江戸期のほとんどは、大坂城には天守は存在しない状態でした。
当時を描いた錦絵には櫓群が描かれています。

幕末を迎えた大阪城。
戊辰戦争の際には、いくつかの櫓は大火によって焼失してしまいました。

明治新政府軍と旧幕府軍が大坂城の明け渡し交渉をしていた最中に、大坂城内からは数か所から出火し、大坂城は大火に包まれたのだそうです。

昭和に入り、市民の寄付によって大坂城の天守再建が行われます。

鉄筋コンクリート造で再建された大阪城天守。
現在では、日本最古の鉄筋コンクリート造の天守としてもその価値を高めています。

平静には大規模な改修工事が行われ、外観などはかなりきれいに修繕されたました

いかがだったでしょうか。
誰もがその存在を知っているほど有名な城なのですが、実はそこには複雑な歴史を経た謎がまだまだ隠されているのでした。
特に古くは難波の宮から続く歴史あるこの地。
今後も様々な研究が続けられていくことで、まだまだ私たちの知らないことがわかっていくのかもしれませんね。