高い建物は、見張り台や目印として等、実用的な目的をもって建てられる場合が多いですが、それ以外にも目的があります。
それは、権力者の力を誇示するために、高い建物を望むということもあります。
ウズベキスタンには、歴史ある都市の中にはミナレットとよばれる塔が見られます。
これらの塔は、前述した実用的な目的の他に、その地を統治する有力者が力を見せつけるために建てられた側面があることも確かなのです。
今回紹介するブハラの町にあるカラーン・ミナレットもそんなミナレットの一つなのですが、約900年近い歴史を持ち、大きな戦禍や地震に見舞われながらも倒壊することなく、現在までその姿を残しているブハラの町の建造物の中では稀有な建造物なのです。
ところがこのカラーン・ミナレットですが、別名があります。
その別名とは、『死の塔』なのです。
物騒な名前ですが、なぜこの党にはそのような名前がつけられてしまっているのでしょうか。
というわけで、今回のわきみちは、
ウズベキスタンに関する記事です。






カラーン・ミナレット
ウズベキスタンのブハラの中心部から見て北西には、ブハラの街のどこからでも見えるシンボル的なタワーがあります。
これは、カラーン・ミナレットといい、ミナレットが光塔と訳されるように高さが45.6mあり、内部には105段もの螺旋階段がある塔です。
ミナレットとは、金曜礼拝の際に音声を流し、信者に礼拝を呼び掛ける目的の他に、見張りに使われたり、砂漠の旅の目しるしとしての役割を持っていました。
また、このカラーン・ミナレットではそれ以外にも、18~19世紀にかけて処刑場として使われた歴史があります。
死刑囚を袋に詰めて塔の上から投げ落とし、地面に激突させて刑を執行していました。
そのため、死の塔とも呼ばれているミナレットなのです。
最後に刑が執行されたのが1884年ということなので、かなり最近までそういった刑が行われていたことが驚きです。
ブハラの町の歴史自体は、紀元前1世紀からあるらしいのですが、現在のブハラは8世紀にイスラム化してから構成されました。
そして、イスラムが新たな地を開拓するにあたって、全住民が礼拝する金曜モスクが建てられます。
そんな、重要なモスクがカラーン・モスクであり、最初は794年に建造されたものの、その後カラ・ハン朝の時代1121年に建て直され、その後の1127年にモスクの前に橋で結ばれたカラーン・ミナレットが建てられました。
塔の基底部が9mもあり、上に行くほど細くなる形状で造られており、塔の壁面は単一な色味ではなく、14層の帯状にれんがを異なる積み方で造ることによって、装飾を施しています。
ミナレットは現在見えている部分から、10mほど地面の底まで土台部分が造られているほど堅牢な造りになっています。
そのかいもあってか、現在までチンギス・ハンによる襲撃にも耐え、街中が崩壊してしまった大地震があったにもかかわらず塔としての堅牢性は損なわれておらず、その都度修復されて現在まで姿をとどめています。
ただし、2019年からは塔内に入って上ることは禁止されています。
アクセス
ブハラの中心にある池、ラビハウズから北西に600mほどの場所にあります。
カラーン・ミナレットへ行ってみた
それでは、カラーン・ミナレットへ行ってみましょう。
ラビハウズから西にあるバザールであるタキを抜け、そこから北に進んでいくとシンボルのミナレットが見えてきます。

こちらがカラーン・ミナレットであり、そのすぐ右横にあるのがカラーン・モスクです。
ミナレットとモスクは、下部が橋でつながれているのが分かるでしょうか。
この当時はミナレット内部に入ることもできたようなのですが、残念ながら入りませんでした。

一緒に写っている人と比べてみるとその大きさが分かるでしょうか。
ブハラで最も重要なモスクであるカラーン・モスクも相当な大きさがあります。

下から見上げてみました。

死刑囚はこの辺りに突き落とされていたのでしょうか。
恐ろしい・・・

ついでにカラーン・モスクです。
詳細な記事は、後日公開予定です。

現在のカラーン・モスクは1514年に再建された建物です。
広大な場所であるため、無信教が国是であったソ連時代には、ここは倉庫として使われていたのだそうです。
ソ連からの独立後は再び礼拝所としてムスリムの人々に使われています。
いかがだったでしょうか。
歴史的な建造物が数多く残り、世界遺産にも登録されているブハラの町。
その中でも、イスラム教伝来以前から重要な場所であったカラーン・ミナレットおよびカラーン・モスクの場所と建物ですが、このブハラが経てきた歴史の重みを感じられる場所です。
ここをさらに西に行くと、以前紹介したアルク城に行くことができます。
これらの貴重な建造物を合わせて見に行ってみてください。