ウズベキスタンをこれまでも何度か取り上げていますが、その中でもたびたび登場するのが英雄ティムールです。
ソ連時代には、ナショナリズムの高まりを抑制するために、ティムールの理想化は禁止されていました。
しかし、ソ連が崩壊し、ウズベキスタンが独立した後は、ティムールは国の英雄として再び人々から崇拝されるようになります。
そして、ウズベキスタンには、首都やティムールと縁のある町にティムール像が設けられています。
タシケントにある、ソ連時代にはマルクス像が立てられていた場所に設けたられたティムール像とティムール広場。
ティムールが再建した町であるサマルカンド。
そして、ティムールの生まれ故郷であるシャフリサブスです。
今回はシャフリサブスのティムール像と共に、この人物がどのような人物だったのかを書いていきたいと思います。
というわけで、今回のわきみちは、
ウズベキスタンに関する記事です。






ティムール
ティムールは、もともとはチャガタイ・ハン国の軍事指導者であった立場から、チンギス・ハンの子孫をハンとして西チャガタイ・ハン国を東チャガタイ・ハンから離反させたり、チンギス・ハンの子孫の娘と婚姻関係をもったりするなどし、ティムール朝を確立します。
チンギス・ハンによって統帥権を奪われ、破壊されてしまっていた中央アジアを復権させた、軍事の天才と呼ばれています。
最大勢力範囲は、中央アジアから西アジアにかけての広大な範囲に及び帝国を造りました。
ティムールは1941年のソ連時代に、ミハイル・ゲラシモフによって遺体の調査が行われた際に、その容姿などが判明し、像として復顔されています。
その際に、右脚が実際に不自由だったことなどが判明しています。
実は、このティムールの棺があけられたとき、墓が暴かれたときにはティムールを超える新たな侵略者がやってくる、といった言葉が書き記されていたのだそうです。
その言葉通り、調査から2日後にソ連にナチス・ドイツ軍が侵攻をかけてくることになります。
天才的な軍人だったティムールですが、学術や芸術に対しても優れた能力を持っていたそうです。
しかしその反面、自分たちに従わない征服地に対しては、大量虐殺を行い、住民たちを恐怖で服従させた一面もあったのだそうです。
また、ウズベキスタンで英雄視されるところには、やはりチンギス・ハン率いるモンゴル軍によって破壊されていた町をよみがえらせたことが大きいでしょう。
ティムールが都として数々の建造物を造ったサマルカンドや、自らの生まれ故郷として同じく町を整備したシャフリサブス。
今現在のウズベキスタンのこれらの都市は、ティムールによる功績によって現在まで続いているのです。
ティムール像へ行ってみた
それでは、ウズベキスタンの3都市にあるティムール像へ行ってみましょう。
タシケントのティムール像

タシケントのティムール像は、アミール・ティムール広場にあります。
タシケントのティムール像は馬にまたがったティムールの姿です。

アミール・ティムール広場は、元々は1882年に、アミール・ティムール通りとミルザ・ウルグベク通りの交差点の位置に造られた広場です。
当初の名前はコンスタンティノフ広場という名称でした。
ソ連時代には、現在のティムール像の場所にはマルクス像が立っていました。
サマルカンドのティムール像

サマルカンドのティムール像は、レギスタン広場前のレギスタン通りを西に1kmほど行ったところにあります。

サマルカンドのティムール像は、環状交差点の真ん中に鎮座する姿をしています。
ティムールが葬られているアムール・ティムール廟(グーリ・アミール廟)の近くです。
シャフリサブスのティムール像

遠くに以前紹介したアクサライ宮殿が見えます。
その前に立つのがシャフリサブスのティムール像です。

後ろのアクサライ宮殿がかなりの大きさのあるものなので、ティムール像とは実際は200mほど離れています。

シャフリサブスのティムール像は、ティムールの立像となっています。

右脚が不自由であったティムール。
なんとなくそのことがこの像にも表現されているのでしょうか。
いかがだったでしょうか。
3つの都市にある同じ人物の3つの像ですが、どれもそれぞれに特徴を持った造りになっていましたね。
中央アジアの覇権を握ろうとするタシケントのティムール像。
王として君臨したサマルカンドのティムール像。
そして、人間ティムールに最も近いかなと思うシャフリサブスのティムール像。
ウズベキスタンに訪れた際は、これらのティムール像をぜひ見比べてみてください。