554【人物あれこれ】20世紀最悪の独裁者の一人。その真の素顔とはどのようなものだったのか『ポル・ポト』

人物あれこれ(Person)
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世界の国々には必ず指導者がいます。
しかし、その指導者が必ずしも聖人君子、統治能力も人格も素晴らしい指導者であれば、その国に住む人々は平和かつ幸福な日々の生活をおくることができるでしょう。
ところが、その指導者が非常に問題のある人物であったならばどうでしょうか。
制度や仕組みをうまく利用し、機を見て、自分の思い通りの国にしていってしまう人物が指導者になってしまったとしたら?
それはとても恐ろしいことではありませんか。
世間一般的にそういった指導者のことを独裁者といいます。
では、これまでの人類史の中にそういった独裁者はどれくらいいたのでしょうか。
長い人類の歴史の中には、そういった独裁者によって多くの人々が苦しめられてきた歴史は多くあります。
近代であれば、ドイツのヒトラーやロシアのスターリン、中国の毛沢東などなど名前が挙がることでしょうし、現代もまだ独裁政権が敷かれている国もあるのです。

では、20世紀にアジアを代表するような独裁者であり、多くの自国民を理想とする共産主義思想のために虐殺してきた人物といえば誰でしょうか。
それこそが、カンボジアに存在した独裁者、ポル・ポトではないでしょうか。
この名前を聞いてどのようなことが思い浮かびますか?
おそらくほとんどの人が、多くのカンボジア人を虐殺し、地獄のような国をつくり上げてしまった人物というイメージがあることでしょう。

では、このポル・ポトとはどのような人物だったのでしょうか?
また、彼はなぜ自分たちの国の国民を虐殺するという道をたどっていってしまったのでしょうか。
今回はこのポル・ポトについて調べてみました。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • カンボジアの人々が口を閉ざし、誰も語りたがらない地獄の時代をつくった20世紀を代表する独裁者ポル・ポト。いったいどういった人物だったのでしょうか。

ポル・ポト

ポル・ポトの生い立ち

ポル・ポト、本名サトット・サルはベトナムにかつてあった民主カンプチア国を統治下カンボジア共産党の代表、そしてそんな民主カンプチアで暗躍していた政治勢力クメール・ルージュを率いた人物です。
クメール・ルージュを率いて、カンボジア国民を大虐殺したことで知られるポル・ポトですが、その生い立ちは比較的恵まれたものであったのでした。

ポル・ポトは1928年にカンボジアがフランスの統治下にあった時代に誕生します。
比較的中規模で富裕な農家に生まれたポル・ポトであり、エリートたちの通う小学校などに通っていましたが、勉学面ではそれほど秀でたものはない少年だったようです
そんなこともあり高校の入学試験にも失敗。
本人が完全に納得いくような学生生活ではなかったようです。

ポル・ポトと共産主義思想

ところが、後に奨学金を得てフランスのパリへ留学することになります。
この留学中にポル・ポトは共産主義思想を持つようになり、フランスにあった共産党グループのメンバーとなって活動していくようになります。
しかしこの留学先でも勉学面では思うようにいかず、奨学金も打ち切られてしまうことになってしまったため、カンボジアに帰国します。

ポル・ポトがカンボジアに帰国したと当時は、フランス統治体制に対してカンボジア内の共産主義者を主導にした反フランス活動が大きくなっていたころでした。
1954年にはフランスがインドシナから撤退します。
その後、新しいカンボジアで実権を握ったのは、かつての国王だったシハヌークであり、共産主義勢力を一掃しようとし、クメール・ルージュなどを国外に追放します。

その後のカンボジアは、カンボジアやラオスが共産主義国になってしまったことに危機感を抱いたアメリカは、資本主義思想を持っていたロン・ノル将軍を支援し、シアヌークが外遊した時を狙ったクーデターを起こし、政権を奪取することに成功します。
ところがこのロンノル政権は、汚職にまみれた政権であったため国民からの人気に乏しい政権でした。
この時に国外では、かつての敵対関係であったクメール・ルージュとシハヌークとが手を結びます。
ポル・ポトにとってはカンボジアに復権するために、元国王であるシハヌークを味方につけることは、国民の支持を取り付けるにはうってつけだったのである。

クメール・ルージュは首都プノンペンを制圧し、ロンノル政権は崩壊します。
そして、満を持して1975年に新しい国民主カンプチアを建国したのです。

民主カンプチアのポル・ポトとクメール・ルージュ

国外追放の時に、数々の貧しい農民たちとも生活を共にしたポル・ポトは、農民として土とともに生き、貨幣や資本に振り回されない姿こそが本来の人間らしい姿であるという原子共産主義に傾倒していくことになります。
そのため、政権を握ったポル・ポトがまず最初にしたことは、知識人や技術を持った者たち、僧侶や教師たちを次々に殺害していきます。

そして、人々が私有財産や貨幣を持つことを禁止し、すべての国民が農民として働くようにします。
つまり文明を破壊する政策を推し進めるようになるのです。
その虐殺はどんどんエスカレートし、外国の言葉が分かる人、難しい本を読んでいる人、ラジオを聞いている人、メガネをかけている人、手が美しい人、娯楽を楽しむ人などなど、次々と殺害していきます。
また、国外に留学していた学生も、「あなたの力を国の再建のために使ってほしい」といった甘言で国に連れ戻し、殺害しています。
この時には、日本に留学していて、祖国に連れ戻されて殺害された留学生もいたのだそうです。

そんな過去に例の無いような自国民の大量虐殺を行ったのがクメール・ルージュの構成兵士でしたが、そのほとんどは13歳以下の子どもたちでした。
子どもは簡単に洗脳することができます。
幼いころからクメール・ルージュの革命思想を植え付けられた子どもたちは、何のためらいなく革命のために多くの人を手にかけていったのでした。
そういった元クメール・ルージュの人々の生き残りは、今もなお心に傷を負いながら、自分がクメール・ルージュであったことを隠しながら余生を送っているのだそうです。

そして、殺害を実行する兵士たちも、何らかの言いがかりをつけられ処刑されていく。
そうやって情報が外部に出ることを防ぎ、次は自分かもしれないという恐怖で兵士たちをコントロールしていたのです。
スパイでもないのに人が人を疑う。
誰もが周りの誰もを信じることができない時代になってしまったのです。

そのため、ポル・ポト政権時代には要職を子どもが占めることが普通になり、何の知識もない子どもが医療と称して手術をする、といったこともあったのだそうです。
この不遇な時代のせいで、カンボジアの人口構成は、とてつもなくいびつなものとなってしまい、ある世代だけがごっそりといない状態になっているのです。

ポル・ポト政権の崩壊

こんなこの世の地獄のような政権長続きするわけもなく、1978年に、ポル・ポト政権に対して反乱していた勢力とベトナム軍勢力によってクメール・ルージュはあっけなく瓦解してしまいます。
ベトナム戦争を潜り抜けて歴戦の兵士たちと、まともな知識も技能もない子どもたちだけのクメール・ルージュでとでは、その戦力差は話になりません。

ポル・ポトの晩年

ポル・ポト及びクメール・ルージュは、カンボジアとタイの国境付近のジャングルに逃げ込みますが、1998年にポル・ポトは心臓発作によって死去します。
一説には毒殺されたのではないかという話もありますが、真偽は不明です。
ポル・ポトの遺体は、古タイヤとともに焼かれ、そのままその場に埋められました。
ポル・ポトが焼かれた場所は、アンロン・ベン県にあり、その場所がポル・ポトの墓として残されています。
国のトップにまで上り詰め、300万人ともいわれる国民を虐殺した人物の墓としては、この粗末な屋根だけが残され、遺骨もむき出しになったあまりにもみすぼらしい墓をみると、彼はいったい何のために生きてきたのだろうか、と考えさせられます。

いかがだったでしょうか。
普通に考えると、なぜこのような虐殺を?となってしまうかもしれませんが、当の本人は、誰もが真に平等な国をつくるという理念のもとに行ったことであり、そこに曇りはなかったのだそうです。
しかし、どんなに純粋な感情であったとしても、どんなに高い理想を持っていたとしても、国民あってこその国家です。
国民を大切にできない人物は、どんなに崇高な人物であっても、指導する立場になってはいけない、ということを教えてくれる人類の歴史なのではないでしょうか。
暗黒の時代を経たカンボジアは、この3年間のためだけに国力の大部分が削がれてしまい、現在もまだ発展していくまでに多大な時間と労力がかかるまでになってしまっています。
国のかじ取りとはそれほど大きな責任をもつことなのです。
果たしてそのことを、私たちの国の指導者たちはわかっているのでしょうか?