575【人物あれこれ】奥さんは日本人にはよく知られているあの人。じゃあ、当の本人はどんな人だったの?『スカルノ』

人物あれこれ(Person)
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インドネシアは国としては非常に新しい国です。
第二次世界大戦後に独立を果たし、その後独立戦争を勝ち抜いて今日のような国の形となったのですが、そんなインドネシア建国のために役割を果たし、今もなお人々によって敬意をもって愛され続けている人物がいます。

ところで、日本でもとある芸能人がインドネシアに非常にゆかりのあることをなんとなく知っているのではありませんか。
その人は、デヴィ夫人です。
その名をデヴィ・スカルノというのですが、このスカルノというのが今回紹介しているインドネシア建国の父である初代大統領スカルノ氏なのです。
デヴィ夫人はこのスカルノ氏の第3夫人なのです。

このデヴィ夫人や、スカルノ氏の名前が付けられた空港など、今なおいろいろなところでその名前を聞くこともあるのですが、実際のスカルノ氏とはどのような人物なのだったのでしょうか。
今回はインドネシア初代大統領スカルノ氏について調べてみました。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • その名前は知っているものの、どういった人物だったかがあまり知られていないスカルノ氏について調べてみよう。

スカルノ

スカルノ氏は20世紀を生きたインドネシア初代大統領です。
オランダの植民地であった東インドに生まれ、民族運動・独立運動で大きな役割を果たし、後に初代大統領となってインドネシアを先導した人物でした。

経歴

スカルノ氏は、ジャワ島の東にあるスラバヤで、両親ともに貴族の家柄に生まれました。
そのため幼少期からしっかりとした教育を受け、高い教養を身に付けていました。

大学卒業後に、スカルノは反植民地運動に身を投じていきます。
その頃のインドネシアは長く続いていたオランダの植民地政策に多くの人々が不満を感じており、スカルノもその一人でした。
そして、同じ志を持った人々とともにインドネシア国民党を結成し、インドネシアの独立を果たすために全国各地で積極的に演説会を行いました。
スカルノは、インドネシアの人々の民族意識を高め、その力をもって独立を果たそうとします。
しかし、オランダの植民地下においてそのような活動が簡単に容認されるわけはなく、2度オランダ植民地政府によって逮捕され、最終的には流刑にまでされています。

独立戦争

そして時代は第二次世界大戦に突入します。
第二次世界大戦後が始まっても、オランダによる植民地政策が続きますが、1941年に同じアジアの小国である日本がオランダ領東インドに侵入し、当時植民地政策を行っていたオランダ軍をあっという間に放逐してしまいます。

日本軍は、オランダ植民地政府に対して敵対し投獄されていたスカルノらを開放して、日本軍がインドネシアを占領するために協力を要請します。
スカルノらは、日本軍とともにオランダ軍のいる連合国と対峙することを選び、日本と強固な関係を築くことで協力を得て、インドネシア独立への動きを進めていくことになります。

その後、太平洋戦争で日本が敗北し、インドネシアから撤退せざるを得なくなります。
この日本軍も、オランダ軍もいない空白の期間に、スカルノとハッタの2名がインドネシアの独立を宣言することになります。
ところが、いったんオーストラリアに逃亡していたオランダ植民地政府が再びインドネシアを植民地化しようと乗り出しますが、これに対してスカルノとハッタが率いる新生インドネシア共和国は戦うことによって真の独立を勝ち取ろうとします。

1945年に始まり、オランダ優位に進むかと思われたインドネシア独立戦争ですが、日本軍が残していった数々の武器と、インドネシア独立のためにインドネシアに残った日本軍兵士による援軍によって、オランダの思うとおりに戦況は進みません。
また、同時期には、東南アジアの各地で独立運動が勃発していたため、オランダに対する旧連合国からの支援は十分ではありませんでした。
そんなオランダでしたが、しぶとくインドネシアに対する攻撃を行い続けました。
世界的な国際世論としては植民地主義に対する目は厳しくなっていました。
あくまでも植民地主義に固執するオランダは、インドネシアに執拗に攻撃を続け、首都であるジョグジャカルタ陥落時には、スカルノとハッタを逮捕・幽閉しています。

そんなオランダでしたが、いつまでも国際世論に抗うことはできず、最終的にアメリカも反植民地的な動きに出たことによってオランダはようやくインドネシアを放棄することになり、スカルノたちは復帰することになりました。

独立後

晴れてオランダから独立した後、スカルノは大統領として独立後のインドネシアを率いていくことになります。
しかし、オランダは再植民地化を企てた際に、ヨーロッパ諸国が植民地政策にて行う手法である国内の分裂工作を受けていました。
そのため、スカルノ率いるインドネシア中央政府がすべての地方まで影響力を与えることが難しくなっており、かえって国家分裂する危機に面していました。

そんな危険性を持っていた戦後のインドネシアでしたが、民主的な総選挙や、大統領に大きな権限を集めることなどを通して、自身に強大な力を集めていくことになります。

晩年

スカルノは、当時力をつけつつあったインドネシア共産党と、インドネシア国軍とが拮抗する状況を巧みに利用して、その上で権力を維持する方法を取りました。

しかし、インドネシア国内で発生した共産党員狩りによってインドネシア共産党が一掃されたことで、その上で成り立っていたスカルノ体制は維持することが難しくなり、共産党寄りだったスカルノはその責任を問われ大統領職を追われ、2代大統領スハルトへと権限が移ります。
スカルノはすべての役職をはく奪され自宅に軟禁され、家族たちも国外に亡命するなどして離散することになります。
この際にデヴィ夫人も国外に亡命することになりました。

その数年後、1970年にスカルノはジャカルタで死去します。

いかがだったでしょうか。
広大な領土に、多くの民族を束ねるということでインドネシアを統治するというのは並大抵のことではなかったことでしょう。
しかし、その苦難の時代に国の道筋をつけたということが、今もなお建国の父として愛されているゆえんなのでしょう。