596【人物あれこれ】非暴力不服従で練り歩く姿は有名なものの、どういった人物だったのかは知っていますか?『マハトマ・ガンディー』

人物あれこれ(Person)
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インド独立の父として有名な人物といえば、マハトマ・ガンディーを思い浮かべることでしょう。
非暴力不服従という姿勢で当時インドを統治していたイギリス勢力と対峙し、独立を勝ち取った人物として非常に有名です。

布を身にまとい、裸足でインド中を練り歩く姿の写真などは見たことがあるとは思うのですが、そもそもガンディーとはどのような人物なのでしょうか?
自分もガンディーはインドの僧だったとも思っていたのですが、実際にこの人物のことを調べてみると、実は知らなかった意外なことがいろいろとわかってきたのです。
今回はこの世界的に有名なマハトマ・ガンディーについて調べてみました。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 革命的な革命運動を先導した歴史的に偉大な人物であるマハトマ・ガンディーを調べてみよう。

マハトマ・ガンディー

生い立ち

マハトマ・ガンディーは、インド独立の父として、イギリスからの独立運動を先導し、独立を勝ち取った人物として非常に有名です。
1869年にインドのグジャラートに生まれたマハトマ・ガンディーですが、宗教家なのかと思いきや実は弁護士だった人物なのでした。

幼少のころはあまり素行もよくはなかったガンディーですが、青年期には弁護士となるために勉学に励み、ロンドンへの留学などを経て、1893年に当時のイギリス領南アフリカ連邦にて弁護士として独立開業します。
しかし、当時の南アフリカ連邦は白人が支配するアパルトヘイト政策下の状況でした。
そのような中で、ガンディーも乗り合わせた列車の中で人種差別体験をします。
有色人種であるがゆえに三等車に移るように指示されたことを拒んだために、車掌から車外に保織り出されてしまったのです。
そのことが自分自身がインド人であるという民族のアイデンティティに目覚めさせ、後の政治活動へ党つながっていきます。
ここでの気づきが、後のガンディーがヒンドゥー教やインド哲学の学びを深めていくことにつながっていき、南アフリカ連邦にてインド系移民の権利回復運動を行っていきます。

第一次世界大戦時

第一次世界大戦時には、イギリスが大戦終了後にインドの将来的な自治を約束することで、インド人への軍への協力を呼び掛けたため、ガンディーもこの活動に協力することになります。
しかし大戦が終了したにも関わらず、インドの自治独立は果たされないままであり、イギリスの統治下ではインド独立はなしえないことにガンディーは気づきます

そのころから非暴力不服従運動を展開するようになり、インド全土を旅するようになります。
イギリス製品は使用せずインドで作られた衣服を着用するなどの活動を繰り返していきます。
そういった活動に目をつけられたため、たびたび投獄されることにもなります。

第二次世界大戦時

第二次世界大戦時には、迫りくる日本軍に対抗するために、イギリスが再び将来の自治を約束して軍への参加を募ります。
しかし、以前イギリスによって裏切られた経験からガンディーはそれを拒否し、投獄されます。

第二次世界大戦が終結した後、イギリスは本国から遠く離れているインドを植民地支配し続けることが難しくなってきました。
インドでは独立運動が盛んになっていき、さらに日本やドイツとの戦いで疲弊したイギリスには、当時のインドをおさえきることができなくなり、ようやくイギリスはインドの独立を受け入れました。

しかし、ガンディーの希望した一つのインドとしての独立は果たされず、ヒンドゥー教のインドと、イスラム教のパキスタンとしての分離独立がなされました。
しかしインドはヒンドゥー教勢力とイスラム教勢力との争いが全土で繰り広げられるようになります。
ヒンドゥー教徒とイスラム教徒がひとつになって独立を望んだガンディーにとって、この全土的に勃発した争いは耐えられないものでした。
ガンディーは断食をすることでこの状況を何とかしようと訴えかけ続けますが、暴徒と化した民衆にはその声は届かず、なかなかうまくはいきません。
しかし、断食を続け、次第に衰えていきながらも一つのインドを目指すガンディーの姿を見て、民衆はやがて落ち着きを取り戻します。

暗殺

そんな最中、1948年にガンディーはヒンドゥー教原理主義者の若者によって射殺されます。
イスラム教に譲歩するガンディーを裏切り者として行われた凶行でした。
ガンディーを射殺した犯人はその翌年処刑されています。

亡くなったガンディーの遺体は荼毘に付され、その遺灰はガンジス川にまかれました。

いかがだったでしょうか。
非暴力不服従の象徴としてのガンディーは世界的に有名ですが、その生い立ちを見ていくと実は弁護士だったということに驚かされます。
しかし、様々な経験から、人々が傷つけあわず、平和的に解決できる方法がないかどうかを模索し続けてこの一人の偉大な人物の功績は、これからも忘れてはならない人類の遺産の一つではないかと思います。