607【高知紀行】天守と本丸御殿が両方現存している日本で唯一の城『高知城』

百名城/続・百名城(Castle)
この記事は約6分で読めます。

久々のお城紹介です。
今回紹介している城は、現存天守をもつ城の一つなのですが、ほかのところにはないここだけの特徴をもっています。
それは、天守だけではなく、御殿も現存しているという城なのです。
日本に城は数あれど、天守も御殿も現存というのはここだけしかないのです。
その城の名は、高知県にある高知城です。

高知城は250年を超える高知城を築城したのは、土佐藩初代藩主である山内一豊です。
この名前を聞くとピンとくると思いますが、2006年の大河ドラマ『功名が辻』の主人公です。
それでは、高知県に数ある名所の中でも街のシンボル的存在でもある高知城を今回は見ていってみましょう。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 日本広しといえども、天守も御殿もすべて現存する実物なのはここだけ。そんな貴重な城を見に行ってみよう。

高知に関する記事です。

642【高知紀行】どこでも食べられる料理だけど、高知のこれは一味も二味も違う!!?『かつおのたたき』
食であふれる高知県。まずは何を食べたいですか?グルメにはたまらない高知県で真っ先に思いつく王道メニューは、かつおのたたきではないでしょうか。今でこそ全国区であるたたきですが、やはり本場土佐料理のかつおのたたきは、一味も二味も違います。
568【高知紀行】こんなところにも日本三大がっかり名所。え・・・、こんなに小さいの!!?『はりまや橋』
今回は日本三大がっかり名所シリーズです。前回はがっかり名所、札幌市時計台を紹介しましたが、三大というだけあるので、あと2か所あるわけで。今回紹介している高知市にあるはりまや橋は、いろいろな経緯があって、全国的に有名な橋であるものの、実際に現在残されている橋を見てみると、「がっかり・・・」してしまう人が多いのです。
519【高知紀行】その眼差しは、太平洋の遠く向こうをいつまでも見つめ続けている『桂浜 坂本龍馬像』
江戸末期の幕末に活躍した志士。数多くの若者たちが、自分たちの理想とする時代の実現のために、現れては消えていった激動の時代。そんな幕末で、最も名前が挙がる人は坂本龍馬ではないでしょうか。龍馬は、自分の生まれ育った藩を飛び出し、江戸幕府の終焉、新時代の幕開けに奔走したことは誰もが知っていることでしょう。

高知城

高知城は慶長16年(1611)に城内の全城郭が完成した高知県にある城です。
ここの特徴は何といっても、現存する12天守の中の一つであるとともに、現存4御殿の高知城本丸御殿である懐徳館があるという、日本でもここだけの両建物が現存する城なのです。

そんな高知城を造ったのは、土佐藩初代藩主である山内一豊
山内一豊は関ヶ原の戦いで東軍の徳川方につき、その後に土佐一刻を任されることになった戦国武将です。
関ヶ原の戦いの翌年である慶長6年(1601)から築城をはじめます。
もともとはこのあたりをおさめていた長曾我部元親による大高坂山があったところに、高知城は築かれました。
非常に水はけの悪い土地であったため城を建てる場所としてはあまり適切ではない場所でしたが、阿内一豊がここに城を築く際には水害対策に最も神経を使い、石樋などを設けるなど工夫を凝らして、城を完成させたのでした。
そして約10年後にすべての城郭が完成しました。
そして名称については、高知城のある場所は、南北を川に挟まれている土地であったため、もともとは大高坂山という名称でしたが、河中山という名前に改名されました。
しかし、これらの川による水害に散々な山さえる結果となったため、2代藩主山内忠義によって、『河中山』を読み方の同じ『高智山』と改名されました。
これが今日の『高知』の始まりとされています。

しかし、築城から126年の地の享保12年(1727)に火災が起こり、追手門などのごくわずかな建物を残して、それ以外は消失してしまいました。土佐藩は享保14年(1729)から幕府の許しを得て再建に着手します。
そして再建から約24年の宝暦3年(1753)に、すべての建物を再建し終えます。
この時に天守も再建されており、現在残る天守及び御殿は寛延2年(1749)に造られたものが残っています。

天守の構造は、天守の前に立つ御殿の玄関から内部に入る構造になっています。
内部構造は複雑ではないところから、江戸中期に再建された平和な時代に造られた天守であることがうかがえます。
天守は三層六階の望楼型天守になっており、最上階には黒漆で仕上げられた廻縁高欄がつけられていて、ぐるっと四方を眺めることができます。

天守と御殿がクローズアップされる高知城ですが、城内の追手門などをはじめとした15の棟が重要文化財にしていされています。
しかし、一国一城令や廃条例、戦争中の空襲被害など様々な苦難があった中で、今もなおその威光を残す高知城は本当に貴重な文化財ですね。

アクセス

とさでん交通桟橋線のはりまや橋停留場から徒歩すぐの場所にあります。

高知城へ行ってみた

それでは高知城へ行ってみましょう。

こちらが追手門であり、門の上部が渡櫓になっています。
この門には、渡り櫓の床から敵の頭上を攻撃することができるようになっており、城内に侵入しようとしても上から襲い掛かる攻撃にやられてしまう難所でした。

追手門は、もともとは大手御門と呼ばれていましたが、後に追手御門と呼ばれるようになりました。
17世紀末に火事により焼失してしまいますが、その後何度か再建と修復が繰り返され、現在残っている追手門は享和ヶ元年(1801)に再建されたものです。
太平洋戦争中には空襲によって半壊してしまいますが、後の解体修理工事によって元の姿に戻されて

石垣から突き出ているのは石樋(いしどい)です。
非常に雨が多く、水害対策が最も重要であった高知県では、排水のための設備に細心の注意が払われています。
流れ出る廃水が石垣に悪影響を与えないように苦渋された、城郭の設備としては非常に珍しいものなのだそうです。
高知城の石樋は16か所あることが現在確認されています。

こちらは山内一豊の妻、千代の銅像です。
大河ドラマでは仲間由紀恵が演じていましたね。
この千代の数々の行いが、一豊の立身出世を手助けしたと伝えられています。

石垣上に高知城の天守が見えてきました。

高知城の詰門(廊下橋)です。
ここを超えると本丸に到着します。
詰門は本丸と二の丸とをつなぐ役目を持った櫓門です。
本丸に敵が容易に侵入できないような造りになっています。

こちらは本丸西側にある門、黒鉄門です。

高知城の御殿及び天守にやってきました。
古式な外観が特徴であり、天守台を持たない形の天守です。
前面にあるのが御殿であり、その奥に連なる形で天守があります。

まずは本丸御殿から見ていきましょう。

高知城の本丸御殿である懐徳館は、1603年委創建された書院造の武家術悪です。
初代藩主夫妻が一時期住んでいたともいわれていますが、城内には二の丸や三の丸といった広い御殿などもあったため、主に特別な儀式などで使われていたと考えられています。

享保12年(1727)の火災によって消失しますが、寛延2年(1749)に再建されたものが現存しています。
なお、創建当時の御殿の形が踏襲されているのが現在の本丸御殿であるということが調査の結果判明しています。

大河「功名が辻」で使用された着物です。

御殿を一通り見終わると、奥に天守の入り口があります。

土佐の人々の暮らしの展示があります。

一階の武者走です。
しかし、部屋は区切って使うようにされていないため、当初から居室としてのような使い方は考慮されていない造りになっています。

歴代藩主の絵です。

高知城の模型です。
狭い敷地内に多くの建造物が詰め込まれているような造りになっているのが分かります。


天守から本丸を眺めます。
本丸を取り囲むように建造物が立ち並び、それぞれが接続するようになっています。

3つ目まではわかりますが、4つめは・・・。

いかがだったでしょうか。
コンパクトな城ながらも、日本の中でここでしか見ることができない重要な文化財がてんこ盛りな城でした。
内部の落ち着きのある感じは、さすが現存天守といった雰囲気満載の城です。
様々な遺構がほぼ完全な形で残る希少な城であるため、城内のいたるところが見どころ満載の城でした。