世界で活躍する日本人というとだれを思い浮かべますか?
スポーツ選手?研究者?アイドル?ミュージシャン?俳優?
よくテレビなどで取りあげられる人物であれば、よく知られていますよね。
しかし、世界で活躍する人物は本当にたくさんいるのです。
その中には、画期的なことをやり遂げた人物もたくさんいるわけで、今回紹介している佐藤琢磨もそんな日本人の一人なのです。
佐藤琢磨と聞くと近年ではアメリカ最高峰のレース、インディ500で日本人初優勝しただけではなく、2回も勝利を得た人物ということで知る人ぞ知る人物ですよね。
さらには、2000年代にはF1でも大活躍し、日本人最高位タイの3位表彰台を獲得したことや、オールジャパン体制のチームのエースとして活躍したりと、F1界に一つの伝説を残した人物でもあるのです。
しかし、この佐藤琢磨。
とにかく恵まれた環境(特に金銭面)にいなければならないレース業界にあって、自らの力でここまで勝ち上がってきた人物なのです。
今回はそんな、現在もなおレジェンドを創り続けている佐藤琢磨について紹介していきたいと思います。
というわけで、今回のわきみちは、
佐藤琢磨
佐藤琢磨は世界で活躍する日本人レーシングドライバーです。
近年であれば、2017年と2020年にインディ500で優勝し、アジア人初の優勝だけではなく2回もの優勝をしたという輝かしい経歴を持っており、今もなお挑戦し続けるレジェンドです。
また、F1界でも2002年から2008年まで参戦しており、ホンダでの日本人最高位タイの3位入賞や、オールジャパンチームのスーパーアグリで活躍したことで有名です。
そんな佐藤琢磨ですが、実はレーシングドライバーとしては遅咲きなのでした。
大学までは、自転車競技で活躍し、自ら立ち上げた自転車競技部でインターハイを制覇。
早稲田大学進学後も、インカレや国体など名だたる大会で輝かしい記録を残していました。
しかし、佐藤琢磨は長く持ち続けていたレーシングドライバーになる夢をつかむために、大学を休学してカートをはじめ、わずか半年の経歴であるにもかかわらず、難関な倍率を突破して鈴鹿サーキット・レーシングスクール・フォーミュラに入学します。
その際、必要な資金約800万を何とか家族から捻出してもらい、必死でモータースポーツの世界で上を目指して邁進していくことになるのです。
そんな結果、1997年にレーシングスクールを首席で卒業します。
その後は全日本F3にデビューしますが、シーズン序盤ですぐに渡英し、2000年からイギリスF3に挑戦します。
2001年には日本人で始めてイギリスのF3でチャンピオンを獲得します。
F3で輝かしい記録を残した佐藤琢磨は満を持して、いよいよ夢であったF1に挑戦するのです。

ジョーダン時代(2002)
佐藤琢磨がF1デビューしたチームはホンダエンジンを搭載するジョーダンでした。
ジョーダンというと、前年度ランキング5位のチーム。
それまでも6人の日本人フルタイムF1ドライバーが存在しましたが、中堅チームで尚且つその中でも最も勢いのあったチームからデビューというのは、これまでになく期待の高まるスタートだったのでした。
前年度に比べるとチーム運営などもあってランキングは落としてしまったことと、ホンダエンジンがジョーダンから引き上げ、BARに専念することになったことから、翌年度はBARのテストドライバーとして移籍することになります。
BAR時代(2003~2005)
2003年はBARのテストドライバーとしてチームに帯同。
しかし、最終戦の日本グランプリでジャック・ヴィルヌーヴの代役として急遽参戦し6位に入賞したことで、次年度からのレギュラードライバーの座を獲得することになりました。
2004年度はレギュラーとライバーとして参戦。
この年のマシン性能が高かったことも相まって、予選などでは驚くような速さを見せつけて行きます。
そして、アメリカグランプリでは、鈴木亜久里に並ぶ日本人最高位タイの3位表彰台を獲得します。
佐藤琢磨はマシントラブルなどの影響もあり、チームメイトだったジェンソン・バトンに比べるとポイントは半分以下しか獲得できなかったものの、チームとしてはコンストラクター2位の座を獲得しました。
2005年は、私生活ではイギリスからモナコに移住して心機一転を図ろうとします。
しかし、前年度とはうって変わって様々な不運が重なり、最終的に佐藤琢磨は1ポイントしか獲得できず、ドライバー市場のごたごたにも巻き込まれ、シーズン終了後にはフェラーリから移籍してきたルーベンス・バリチェロにシートを奪われる形で、BARから追い出されてしまいます。
スーパーアグリF1時代(2006~2008)
BARを追われた佐藤琢磨は、2006年からの参戦を目指していた鈴木亜久里がオーナーを務めるオールジャパンチームであるスーパーアグリF1から参戦することになりました。
しかし、急ごしらえのチームであり、BAR同様にホンダエンジンではあるものの、他のチームから4年落ちのかつて存在していたチーム アロウズのシャシーを流用したため、他のチームとは比較いならない戦闘力でのスタートとなりました。
終盤になってくると徐々に中堅チームとも戦えるようにはなってきましたが、厳しいシーズンを過ごしました。
2007年のマシンは前年度よりも比較にならないほどの高い戦闘力を持ち合わせており、この年にはチーム初の8位入賞と6位入賞を果たします。
しかし、資金力に乏しいチームは、思うように開発ができず、次年度に向かっていくこととなります。
2008年は、チームの資金難が深刻になり、シーズンに参戦できるかどうかもめどが立たない状況となります。
なんとか資金の目途ををつけて参戦したものの、開発はできておらず戦闘力のないマシンで戦い続けなければいけませんでした。
しかし、そんな努力もむなしく、シーズン途中でチームが撤退の方針を示したため、佐藤琢磨は行き場を失ってしまいます。
他カテゴリーからオファーがあったものの、F1残留にこだわり続けていた佐藤琢磨は、トロ・ロッソとも交渉を進めますが、2009年シーズンのレギュラードライバーからは落選し、F1でのキャリアを終えます。
インディカー時代(2010~)
2010年から2011年は、F1参戦の可能性も探りながらインディカーのKVレーシングから参戦します。
2012年はレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングに移籍。
2013年から2016年はA.J.フォイト・エンタープライズから参戦。
2017年はアンドレッティ・オートスポーツから参戦し、自身最高位の総合8位を獲得。
そして、この年には日本人初のインディ500優勝も獲得します。
2018年からは再びレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングに移籍し2021年まで所属します。
この間、2020年には2度目のインディ500優勝を飾ります。
2022年には、デイル・コイン・レーシング移籍し、まだまだ現役を続けているのです。
いかがだったでしょうか。
おそらく佐藤琢磨のことを知ったという人たちにとっては、F1時代に知った人たちかインディ500の偉業によって知ったかのどちらかではないかと思います。
20年以上も世界の厳しいレーシング業界に身を置きながら、それでもなおまだまだ輝かしい結果を残している佐藤琢磨。
そのストイックさには陰りが見えません。
これからもまだまだ現在進行でのレジェンドを目の当たりにすることができるかもしれませんね。