インドネシアは東ジャワ地方。
インドネシア第二の都市であるスラバヤのすぐ北に、東西に約150kmもの大きさのある巨大な島があります。
かつては、スラバヤから船によってでしか往来することができなかったこの島ですが、2009年にインドネシアでも最大である橋、スラマドゥ大橋が開通したことによって、スラバヤのあるジャワ島とこの島とは陸続きとなりました。
この島の名前をマドゥラ島といいます。
スラバヤからは海を隔てて本当にすぐ近くにあるこの島なのですが、近いけれどジャワ島とは異なる文化、異なる人の気質を持つ島として知られているのです。
ではなぜこんなに近い所にあるのに独特の要素をもつ島となっていったのか。
今回はこのマドゥラ島がどのようなところなのか、紹介していきたいと思います。
というわけで、今回のわきみちは、
東ジャワに関する記事です。








マドゥラ島
マドゥラ島は、インドネシアを構成する島の一つであり、ジャワ島のちょうど北東、マドゥラ海峡を隔てたスラバヤの向かい側にある島です。
東西が約150km、南北が約45kmと横に長いこの島ですが、スラバヤとは2kmほどしか離れておらず、2009年にはインドネシアでも最大の橋であるスラマドゥ大橋が開通したため、陸続きでのアクセスが非常に便利になりました。
そのため、ジャワ島とさぞ近い文化圏なのだろうかと思うと思います。
ところが、これだけ近いにも関わらず、ジャワ島とマドゥラ島の間には大きな違いがあるのです。
実際、ジャワ島スラバヤの人々にマドゥラのことを聞くと、
「危ないから気をつけなよ。」
とか
「マドゥラの人は気質が荒いからねえ・・・」
といった言葉を聞くことができます。
日本で言うと、京都の人が大阪の人を見るような感覚でしょうかw(個人的見解ですw)
では、このマドゥラ島とはいったいどのような場所なのでしょうか。
マドゥラ島の人々
マドゥラ島に住む人々はマドゥラ族と呼ばれている人々です。
マドゥラ族は、1500万人ほどが存在しており、その大半が東ジャワからこのマドゥラ島にかけて住んでいるとされる民族です。
そして、このマドゥラ島には大体400万人近くが住んでいるとされています。
マドゥラ族の人々は、民族内ではマドゥラ語を用いており、多民族間ともやり取りができるようにインドネシア語も用いています。
マドゥラ島の産業
マドゥラ島は非常に広大な土地があるのですが、その気候の特徴として乾燥しているところなどが多かったりすることから、古くから稲作には適していませんでした。
そのため、マドゥラの人々はそれ以外の産業を考えていく必要がありました。
まわりを海に囲まれたマドゥラでは、それを生かした産業が人々にとって重要な働き口となりました。
その一つが塩田による塩作りです。
広い田んぼのような塩田が海沿いの地域に広がり、太陽の力によってミネラル分たっぷりの塩が大量に作られています。
今でもこの伝統的な塩田による塩作りは続けられており、主要な特産品となっています。
それ以外にもトウモロコシや、たばこといった農産物がマドゥラでは多く造られています。
また、島に囲まれているため漁業も盛んであり、牧畜や鍛冶業などもよく行われています。
ただし、それだけでは生きていくことが難しいため、対岸にあるスラバヤに出稼ぎに出たりという人も多かったりします。
さらには、マドゥラの人々はリサイクル業界の利権を一手に引き受けています。
そのため、スラバヤなどの大きな都市で、リサイクル資源を集めてリサイクルしていく業界に関しては、マドゥラの人々が牛耳っており、他の民族の人々が入り込めないところになっているのだそうです。
マドゥラ島の文化
マドゥラ島の有名な文化としては、毎年9月から10月頃に行われる、機種を惹いた牛が競い合う競牛、カラパンサピです。
マドゥラ島各地で行われるこの牛たちによるレースは、マドゥラ島を代表する祭として内外に非常に有名なものとなっています。
また、伝統工芸であるろうけつ染めのバティック産業も盛んであり、マドゥラで作られるバティックは高品質であり、日本人にも人気のある特産品となっています。
マドゥラ島の人々の気質
マドゥラ島の人々の気質なのですが、自分たちのアイデンティティを強く持っている人々が多く、ジャワ島と非常に隣接していることもあってか、ジャワ島に住む諸部族と対立心が非常に強くなっています。
なぜそのようなことになっているかというと、インドネシアとマドゥラ島とのかつての歴史にその原因があります。
マドゥラ人の人々は、インドネシアに住む多くの民族の中では、銭湯民族としての位置づけにあり、ジャワ島に数々の王国が存在した時代や、オランダによる植民地時代にはマドゥラ族を軍に徴用することが多くありました。
また、インドネシアがオランダからの完全なる独立をめぐって引き起こしたインドネシア独立戦争。
そのさなかの1948年に、オランダはインドネシアの独立勢力に対抗するために、マドゥラ島にオランダの傀儡国家であるマドゥラ国をつくりました。
オランダは、インドネシアの再植民地化を狙ってマドゥラ島を占領した後、マドゥラ民族のアイデンティティを刺激して、独立に関する住民投票を行い、一見すると民主的にマドゥラを独立国家に仕立て上げました。
しかし、マドゥラに住む約1割~2割ほどの人々の民意でしかなかったことと、公然と行われた買収などによって得られた結果であったため、国連でもこのマドウラ国の樹立については疑問が付きましたが、オランダはこれを押し通して、傀儡国家を樹立したのです。
ところが、オランダは後にインドネシアの再植民地化を断念し、撤退することになります。
そのときにマドゥラは放置されてしまい、オランダからの経済援助も途絶え孤立してしまうことになってしまいます。
独自に国家運営が成り立たなくなったマドウラ国は、インドネシアへの再度の編入を要求して、晴れて1950年委インドネシアに編入されることになりました。
マドゥラ島とジャワ島との人々の気質の違いと、それぞれになかなか受け入れられない状況というものは、やはりこの歴史的な無慈悲な国家の分断に起因するものも少なくはないのではないでしょうか。
アクセス
東ジャワのスラバヤからマドゥラ海峡を隔てて約2km北に行ったところにあります。
マドゥラ島に行ってみた
それではマドゥラ島に行ってみましょう。

スラバヤからは、スラマドゥ大橋がかかっているので、車でも陸路でマドゥラ島にわたることができます。
また、車ごと輸送できるフェリーもあるため(片道400円程度)、船でゆっくりと島へ、というスタイルも選ぶことができます。

開通してまだ十数年である立派な橋を車で駆け抜けます。

かなり立派な橋ですよね。

向こう側にマドゥラ島が見えてきました。

マドゥラ島は対岸のスラバヤと比べると、まだまだ自然のたくさん残る点が特徴です。

ポイントポイントで民家の多く集まる部分があり、道路はまあまあきれいに整備されています。

こじんまりとした家々が連なり、どこかのどかな雰囲気が漂います。

こちらは、マドゥラ島の西海岸近くにあるPESONA BATIK MADURAです。
プリントではなく、伝統的なろうけつ染めの手法で作られた高品質なバティックが、比較的お手ごろな価格で手に入るお店です。

民家が密集する中にあるので、地理に詳しい人でなければたどり着けないかもしれません。

売り場の奥にある展示室のようなスペース。
さらに増築しているようであり、とても儲かっているようでした。

こちらはマドゥラ島からスラバヤに向かうフェリー乗り場です。

車ごと乗り場までやってきます。
片道約400円ほどと、安いです。

こちらがフェリーです。

徒歩の人やバイクの人々にとっては今もなお現役で活躍し続けている渡島手段のようです。
いかがだったでしょうか。
大都会スラバヤから少し足を延ばすだけで、インドネシアの原風景の生活が広がるこのマドゥラ島。
ただし、全域で見るとまだまだ危ないことも多いといわれているこのマドゥラ島ですが、島の西のエリアに関しては自由に見て回っても比較的安全に行くことができるのではないかと思います。
せっかくインドネシアに来たのだから、様々な民族の生活に触れるということも、その国を知るために大切なことではないかと思います。