848【人物あれこれ】嵐のようにわが人生を生き抜いた、アジアが誇る大スター『ブルース・リー』

人物あれこれ(Person)
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記憶に残るアクション俳優は?
と聞かれると何と答えるでしょうか。
現在進行中のハリウッド俳優などの名前がたくさんあがることだとは思いますが、やはり本物のアクションとなると、アジアのアクション俳優の名前が出てくるのではないでしょうか。

そんな数いるアクション俳優の中で、世界中で輝きを放ち、一瞬の打ち上げ花火かの如く消えていった伝説のアクション俳優がいます。
それこそが、ブルース・リー(李 小龍)です。
日本でも大流行となったブルース・リーの映画。
しかし、日本で大ブームとなった時には、もうブルース・リーはこの世にはいなかったというのは知っていますでしょうか。

世界中をその肉体一つで接見しながらも、生き急ぐかのようにこの世を去っていったブルース・リー。
では、そんなブルース・リーとはどのような人物だったのでしょうか。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 今もなお、世界的アクション俳優として名前の挙がるブルース・リー。その輝かしい功績とはどのようなものだったのでしょうか。

ブルース・リー(李 小龍)

ブルース・リー(李 小龍)は、アメリカ合衆国出身の香港人映画俳優です。
その活躍は俳優だけにとどまらず、本物の武道家であり、映画監督であり、哲学者でもあります。
その生涯は32年と非常に短く、自らの哲学を追求し続けたがために、その一瞬の人生を駆け抜けていったような人物なのです。

生誕

ブルース・リーが生誕したのは、1940年のサンフランシスコ。
著名な喜劇俳優であったリー・ホイチュアンとその妻グレースとの間に生まれました。
その際に付けられた名前がチェンファンであったが、アメリカ式の英語表記のニックネームということでブルースと呼ばれるようになりました。
父親が俳優だけあって、映像業界とのつながりが深かったことから、生後三か月で金門女という映画で銀幕デビューを果たしています。

幼少・青年期

その後李一家はイギリス植民地下の香港に帰国。
幼少期は病気がちであったブルースでしたが、母親から与えられた本がブルースにとって夢中になれるひと時でした。
その後、香港は日本占領下におかれ、映画製作自体は行われなくなってしいますが、第二次世界大戦終了後に再び数多くの映画が作られるようになり、ブルースもそれらの映画に子役で多く声がかかるようになります。
このこころから李 小龍という芸名を使って俳優の道を歩み始めるようになるのでした。

青年期になると病弱だったブルースは一変し、天性の運動能力を生かして、喧嘩に明け暮れるようになります。
しかし、当時の香港は白人が跋扈する時代。
そういった相手達にも喧嘩を吹っ掛けたり、報復されたりといった日常を繰り返します。

そんな中でブルースは武術を習い始めることになります。
詠春拳(えいしゅんけん)の使い手であった葉問(イップマン)の元で修行に励むようになっていきます。
最小限の動きで最大限の攻撃を与えることを目的として詠春拳。
ブルースは、実践につながるこの武術にのめりこみます。
一つのことに夢中になるとそれ以外のことが何も見えなくなる人物だったのがブルースでした。
これは彼の長所でもあり、ひたすらのめりこみすぎてしまうという短所でもあったのでした。

また一方で、当時流行していたチャチャというダンスも習い始めるなど、喧嘩に明け暮れる人物であると同時に、最新の流行にも目がない人物へと育っていったのでした。
その他にもボクシングにも取り組んだり、他派の武術を学び始めるなどして、より武術にのめりこんでいきます。
そういった普段の素行が問題を起こし、ブルースの父はもはや香港に置いておくことはできないと判断。
アメリカへと渡米させられるようになるのです。

渡米からアクションスターへ

わずか18歳だったブルースは単身シアトルに移り住み、新聞配達やチャチャダンスの指導者として生計を立て、チャンスをうかがいます。
そして得意のカンフーで道場を開くこととなります。
また、ワシントン大学の哲学科にも進学し、武道の精神について極めていこうとします。
その後、大学は退学し、同乗の経営に専念します。
そこでブルースが立ち上げたのが独自の武術である截拳道(ジークンドー)なのでした。
その中身は、詠春拳で学んだ動きに、相手の拳を遮るという基本を取り入れた新しい武術を生み出したのでした。
また、この道場で生涯の伴侶となるリンダ・エメリーと出会うことにもなりました。

道場の知名度を高め、経営を軌道に乗せるために、ブルースはアメリカのロングビーチ国際空手選手権の公開演武に招かれることになりました。
その際のデモンストレーションの模様を治めた一本のフィルムが、テレビドラマ監督でありのちにテレビシリーズのバットマンを大ヒットさせることとなったウィリアム・ドジャーの目に留まります。
そして、テレビシリーズのグリーン・ホーネットの準主役である徐主役を演じることとなり、そこで演じたヌンチャクアクションが多くの人気を博すようになります。

1970年には仙骨神経の損傷によって半年ほどの入院を余儀なくされますが、再び銀カウの世界に戻ってくることとなります。
それこそが、ドラゴンシリーズの第一作となるドラゴン危機一髪なのでした。
爆発的大ヒットとなったドラゴン危機一髪を筆頭に、ドラゴン怒りの鉄拳へと公開されていき、各国で爆発的なブームを巻き起こしたのでした。

自ら監督として。そして、謎の死

しかし、映画を製作していく中で、脚本や監督に対して疑問が積もり積もっていくブルース。
そこで、俳優だけにはとどまらず自ら監督として映画製作を始めることになるのです。
ドラゴンへの道で監督デビューを果たし、地位と名声と富を確実に自らのものとしていったのでした。
栄光を掴んだブルースは、さらに自らの映画制作に取り掛かっていきます。
監督2作目の死亡遊戯の撮影が始まりますが、そのさなかにアメリカのワーナー社から燃えよドラゴンのオファーが入ることになります。
しかし、このころのブルースは何かに追われるように映画にのめりこみ、また体型も驚くほどやせ細っていっていたのでした。

そして、1973年の5月10日。
頭痛を訴えたブルースは、鎮痛剤を飲んでベッドに横になり、そのまま昏睡状態に陥ってしまいます。
そのままブルースが目覚めることはなく、脳浮腫による死亡が確認されます。

日本での大ブーム

そんなブルース最後の大作である燃えよドラゴンでしたが、日本を含め、世界中でブルースの映画に対するブームが巻き起こります。
しかし、その時にはブルースはこの世にはいなかったのでした。

いかがだったでしょうか。
ブルース・リーの映画でぜひとも見ていただきたいのは、彼のダイナミックなアクションだけではなく、彼の哲学的な思想が映画の中で重要なシーンとして表現されている点です。
ただ単に敵を倒すだけではなく、武術を通して生き方を極限まで考え続けたブルース・リーの映画。
今でも簡単に手に入れることができるので、ぜひ一度偉大なアクション俳優の生き様を見てみてはいかがでしょうか。