855【鳥取紀行】因幡三名城の一つ。街道の様子が手に取るようにわかる『若桜鬼ヶ城』

百名城/続・百名城(Castle)
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日本の各地に残る山城
なぜこんな山の上に城を築かなければいけないのか?
それは、それ相応の意味があるのです。

戦乱の時代に山城を築くということは、防御の面でも攻撃の面でも秀でたものがあったのです。
そんな攻防に長けた山城をしっかりと見てみたいのであれば、鳥取にあるこんな城はいかがでしょうか。
その城は若桜鬼ヶ城といいます。
なんとも重々しい名前の城なのですが、かなりの歴史のある山城の一つなのです。
そして、この城から見渡す光景を見ると、山城とはこういう理由がったのかと、納得させられる場所なのです。

今回は、鳥取にある名城の一つである若桜鬼ヶ城について紹介していきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 因幡三名城の一つである名城、若桜鬼ヶ城。続日本百名城にも選ばれた名城を見に行ってみよう。

鳥取県に関する記事です。

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若桜鬼ヶ城

若桜鬼ヶ城は鳥取県にある山城です。
因幡(いなば)三名城の一つであり、鳥取城、鹿野城と合わせて呼ばれています。

若桜鬼ヶ城があるのは、播磨から但馬の領国を通じる街道を抑える位置に造られています。
標高が452mの鶴尾山山頂から尾根にかけて存在しており、山頂に位置している主郭部と、山頂から北に派生している尾根の中腹から先端にかけて築かれている曲輪群からなっています。
主要部は1600年頃に造られた意向であり、尾根に広がる部分は1200年ごろの古城部となっています。
そのため、一つの城跡の中に近世城郭と、中世城郭の両方の遺構が混在して残っている貴重な城跡なのです。

若桜鬼ヶ城が築城されたのは、その前身となる城館が矢部暉種(あきたね)氏がによって築かれた正治2年(1200年)ごろであると考えられています。
このころの遺構が古城部なのです。
矢部氏の居城時代は戦国時代末期まで続きますが、名将であった山中幸盛の手に落ちます。
しかし、その翌年には激戦を繰り広げていた毛利氏に敗れ、毛利氏の居城となります。

その後には、羽柴秀吉が率いる織田軍が中国進行を行った結果、秀吉によって因幡国攻略の拠点として使われるようになり、熾烈を極めた鳥取城攻めの後は、木下重賢が入城します。
ところが、秀吉の死後に起こった関ヶ原の戦いでは、木下氏は西軍に就いたため戦いの後改易となり、その代わりに山崎家盛が入ります。
立て続けに城主が入れ替わることとなった若桜鬼ヶ城ですが、江戸時代に入って一国一城令によって廃城となってしまいます。

若桜鬼ヶ城の城郭以降は大きく二群に分けられており、、尾根沿いに小規模ではあるものの曲輪群が残っており、そこに土塁や堀切、竪堀が造られるなど中世の城の特色が色濃く残っています。
そして、この辺りで採取された石材によって小口や天守台などの石垣が築かれています。
また、山頂部の大規模な石垣は、一国一城令による廃城時に破却された状態を鮮明に残しています。
またそれ以外にも各所で崩れた石垣が確認されますが、これは一国一城令の廃城の際に、破城という行為によって意図的に崩されたものとなっています。
本丸の天守台や小口などの中心部分や山麓から確認しやすい部分を主に破却されており、これは一般的な破城のやり方を踏襲したものとなっています。
こういった中世から近世にかけての遺構であることから、国の史跡級の城であと認められ、2017年には続日本百名城にも選ばれるに至っています。

アクセス

鳥取県八頭郡若桜町若桜にあります。

若桜鬼ヶ城へ行ってみた

それでは若桜鬼ヶ城へ行ってみましょう。

若桜鬼ヶ城にやってきました。
もちろん山城ですので、山の奥地にあります。
車でも訪問することができるので、比較的便利に訪れることができます。

山の表面に沿って、城は築かれています。

それでは本丸に向かって歩いていきましょう。

クマよけの電気柵が張り巡らされています。

本丸が近づいてくると、上の写真のように石垣が見えてきました。

まだまだ観光面での整備はまだまだなのですが、その分現代まで受け継がれてきた山城の雰囲気がそのまま伝わります。

結構な山道を登っていきます。

もうすぐ二の丸・三の丸です。

二の丸・三の丸に到着です。

ここからは本丸に向かうことになりますが、ここでお忘れなく。

二の丸に建っている作業小屋前に続日本百名城スタンプが置かれています。
けっこう、扱いは雑ですねw

二の丸のあった場所であり、発掘調査の結果から数多くの瓦や陶磁器などの遺物が出土した場所となっています。

それでは本丸及び天守台に上がっていきます。

天守台に上がってきました。
ここは鶴尾山山頂の標高452m部分になります。
本丸の南側に天守台が築かれており、この場所からは様々な瓦などが見つかってはいますが、どのような建物が築かれていたかは不明となっています。

この若桜鬼ヶ城の山城たる光景はこの天守台から見下ろした光景でしょう。
上の写真のように写真の右にある播磨に向かう街道と、左奥に向かう但馬方面の街道との結節点に位置しており、両方の国に向かうう街道の様子が手に取るようにはっきりとわかることが特徴です。
この場所に若桜鬼ヶ城が築かれたことがよくわかります。

こちらは三の丸にある大手虎口台跡です。
ここはその造りから江戸時代初期に築かれたものであると考えられています。

いかがだったでしょうか。
鳥取県といえばまずは鳥取城、となりますが、この若桜鬼ヶ城も因幡産目状に入っているだけあり、非常に見ごたえのある山城でした。
鳥取城に比べると、訪れている人はほとんどいませんが(実際訪れたときもすれ違ったのは数名)、だからこそ今ならばじっくりとこの光景を堪能できるのではないでしょうか。