日本の味の基礎になっているのは醤油とみそ。
この2つがなければ、日本の味というものは存在しません。
日本の空港に降り立てばみその香りがする。
それぐらい日本そのものの味になっている醤油とみそ。
これらはそもそもはどのようにして作られるようになったのでしょうか。
そんな醤油やみその原型となったであろうと考えられている食べ物がまだ現在の日本に残されているのです。
それは和歌山をはじめ、静岡や千葉での名産ともなっている食べ物なのですが、金山寺味噌といいます。
何やら聞きなれない味噌の名前のように思いますが、この金山寺味噌から醤油が作られるようになったという伝承があるほど、歴史ある食べ物なのです。
そして、和歌山などを代表するお土産にもなっているこの金山寺味噌。
発酵食品であるこの金山寺味噌は、現代の健康ブームとも相まって、その人気が徐々に高まりを見せつつあるのです。
そのまま食べておいしい味噌。
酒の肴においしい味噌。
金山寺身を食卓に置いて、豊かな食生活を実現していきませんか。
それでは今回は、この金山寺味噌について紹介していきたいと思います。
というわけで、今回のわきみちは、
和歌山に関する記事です。






金山寺味噌
金山寺味噌(径山寺味噌)は、和歌山をはじめ静岡や千葉などで生産されている味噌であり、なめ味噌と呼ばれているそのまま食べる味噌の一種です。
元々は寺で食されていたものであり、夏に撮れた野菜を冬に食べられるようにするための保存食の一つでした。
アミノ酸やビタミンなどが豊富であり、美味しく発酵食品を摂取できる点が改めて見直されています。
主に調味料としてではなく、副菜として食事として食べたり、酒のあてとして食べたりする味噌なのです。
味噌だけではなく、白瓜やナス、シソやショウガなども一緒に入っており、ご飯の上にのせて食べるなどすると、非常に食の進む食べ物なのです。
金山寺味噌を製造販売している店は現在でも日本の中に数店残っています。
その中でも最も多いのが和歌山であり、伝統的な製法を守り続けて製法が続けられているのです。
製法としては、大豆と米、麦や野菜から作られています。
最初に大豆を引き割ってこれに麦と米を合わせて蒸し上げます。
そこに麹菌を混ぜて麹を作り、塩と砂糖とを混ぜ合わせます。
そこに白瓜やナス、ショウガなどを加えて、桶に詰め込んで重石をして密閉した状態で約半年間熟成することで完成します。
しっかりと熟成させることによって、一緒に入れられた野菜類を保存食として長く美味しく食べることができるのです。
もともとは夏野菜を冬に食べるために用いられた金山寺味噌。
そこには、伝統の技が受け継がれているのですね。
今から約700年ほど前の鎌倉時代に、宋(中国)の径山興聖万寿禅寺(通称:径山寺(きんざんじ))にてある僧が修行を終えます。
その僧の名前は法燈国師といい、禅宗法燈派の本山、鷲峰山興国寺の開祖となる人物です。
同氏が宋で修行の際にそこで作られていたなめ味噌の製法を学んで日本に持ち帰ります。
なお、本場である中国の径山寺では、径山寺味噌の製法の伝承は絶えてしまっており、その製法は残されていないのだそうです。
帰国した法燈国師は、興国寺を開山し、この周辺に金山寺味噌の製法を伝えたとされています。
和歌山の中でも興国時周辺であった由良の地は水が硬質であり、そこからより良い水を求めて製法が広がっていき、有田川や日高川周辺にその製法が広がっていったとされています。
温暖かつ、水源が豊かであった和歌山の地は金山寺味噌作りに適しており、以降味噌づくりの名産地として古くから受け継がれ続けてきています。
この興国時から北に行ったところに和歌山の醤油の産地である湯浅があります。
湯浅醤油といえば、今では日本各地のスーパーでも手に入れることができるようになったほど、醤油の有名ブランドとして知れ渡っていますね。
なぜこの湯浅が醤油の名産地となったのかというと、この金山寺味噌がが関係しているのです。
金山寺味噌作りが行われていた由良の地からすぐ北の湯浅にも味噌づくりが伝えられます。
その湯浅では、金山寺味噌を作る工程の中で染み出した液体から醤油が作られるようになったと言い伝えられており、醤油醸造発祥の地として紀州湯浅は日本遺産として認定されるほどになっています。
いかがだったでしょうか。
食べると、みそ汁などに使われる味噌などと比べると甘みのある味噌となっている金山寺味噌。
具材の形が残る独特のなめ味噌である金山寺味噌が食卓にあれば、それだけで食を進める手が進むことは間違いないでしょう。
まずは、和歌山などに行ったときにはその味を試してみてはいかがでしょうか。