歴史の話をすると、必ずと言っていいほど登場する代表的な人物、織田信長。
その織田信長はそれまでの旧来の日本に、新たな風を吹き込んだ人物です。
積極的に西洋の生活様式や文化を取り入れたこと。
誰も考えつかなかったような戦法を取り入れたこと。
城に天守を初めて設けたこと。
などなど、それまでの常識を覆したという点では歴史に名前が残ることもうなずけます。
そんな信長は、それ以外にも数々の、それまでの一大名ではやっていなかったことがあります。
それは家臣に黒人の人物がいたということです。
明らかに日本にはいなかったであろうその人物。
名前は弥助と言います。
信長の家臣として仕えていたこの人物ですが。なんと信長によって武士の身分に取り立てていたのです。
この人物、その生没年はわからない謎の人物なのですが、その姿を見た様々な人々の記録に、弥助という人物が存在していたということが書かれているのです。
今回はこの謎の人物である弥助について紹介していきたいと思います。
というわけで、今回のわきみちは、
弥助

弥助は、戦国時代に戦国大名である織田信長に仕えていた家臣であり、武士の身分であった人物でした。
この弥助なのですが、黒人であり、もともと日本に住んでいた人物ではありませんでした。
ではその生まれはどこであるかというと、アフリカ大陸、現在のモザンビークの辺りで1550年頃に生まれたと考えられている人物です。
そんな日本からはるか遠くに生まれた弥助でしたが、当時の弥助が生まれた地域はポルトガル領の地域でした。
そのため、ポルトガルやスペインの人々は、アフリカ出身の黒人たちを従者・奴隷として自分たちに帯同させていました。
特に宣教師たちが新たな地域に布教活動を行う際には、宣教師たちのお付きをするとともに、護衛を行うような役割も担っていました。
弥助もアフリカで生まれ、その後インドに渡った後に、イエズス会の宣教師と共に日本にやってきました。
弥助はそんな中のイエズス会カトリック教会の司祭であったヴァリニャーノ氏と共に日本に渡ってきました。
このヴァリニャーノ氏は、天正遣欧少年使節派遣を計画し、実際に実施した人物であることで有名です。
このヴァリニャーノ氏と弥助がいったいどこで出会ったのか、アフリカからなのか、インドからなのか、どこから弥助が帯同してきたかについてはわかっていません。
そんな弥助は、立派な体格と他に並ぶものがないほどの剛力によって、護衛の役割を主として日本にやってきたのであろうと考えられています。
日本へやってきた弥助
そんな経緯を経て日本にやってきた弥助でしたが、1581年にヴァリニャーノ氏が信長に謁見したときに奴隷として引き連れていたのが信長の目に留まりました。
初めて黒人を見た信長は、その姿を不思議に思い、非常に関心を寄せたのだそうです。
20代中盤の屈強な若者であったこの黒人青年を、信長はヴァリニャーノ氏から譲り受けます。
そして、その青年に弥助という名前を付け、身分も武士として自らの家臣としたのでした。
信長がこの弥助を道具持ちとして引き連れていた様子は、それを見た数々の記述に残されています。
身長180cm以上となると、この時代ではまずありえない身長でしょう。
その姿を見た数々の人々は、それは記憶に残る人物だったのではないでしょうか。
信長の側近としての立場を確立した弥助は、信長が命を落とす本能寺にも宿泊していました。
明智光秀の襲撃を知らせたり、信長の子息である信忠を守るため戦った挙句、明智の軍に投降したとされています。
明智光秀にとらえられた弥助でしたが、弥助を殺害はせず、その身分は南蛮寺に預けるという決定をしたため、弥助の命は助かります。
しかし、その後の消息については史料が全く残されていない状態であり、分からないままなのだそうです。
この弥助という人物。
信長の家臣としても非常に特徴がある人物であり、信長を取り扱ったドラマや漫画などは数多くの作品で登場しています。
時代に変革を起こした信長という人物の、型破りな存在であったということを、この弥助という人物は人々に伝え続けていることなのでしょう。
いかがだったでしょうか。
当時の日本の状況を考えれば、ヨーロッパからやってきた白人の姿ですら見たことがない人々がほとんどの時代。
その時代にあって、弥助の存在というのは際立ったものなのではないでしょうか。
信長が弥助という名前を与え、武士としての身分を用意するなど、弥助の秘めた力に目をつけた信長の先見の明はさすがではないでしょうか。
人種ではなく、その人そのものを見る。その人物の能力を見る。
そういったところが、信長という人物が天下を牛耳る王手をかけるところにまで推し進めた要因なのかもしれませんね。
その考えは現代にも通じるところがあるかもしれませんね。