今回は、北海道は網走を代表するある施設についてです。
その施設とは、もともと実際に使われていた監獄である、旧網走監獄です。
現在は博物館として使われているこの建物ですが、網走=監獄というイメージを誰もが浮かべるほどあまりに有名な施設ですよね。
ところで、実際にこの施設に訪れたことがありますでしょうか??
実際に行ってみると、網走監獄の広さに驚くことでしょう。
全てを見て回るとすると3時間ほどは必要なぐらいの広さと、施設内にある数々の見どころ。
たった一度の記事では紹介しきれないほどの規模なのです。
そこで、今回からはこの網走監獄の中にある数々の見どころを、少しずつ紹介していきたいと思います。
初回である今回は、やはり施設の玄関口ですね。
網走監獄に訪れ、チケットを購入してまず真っ先に目に入るのが正門と、さらにそこから少し歩くと目の前に見えてくる庁舎ですね。
今回はこの正門と庁舎について紹介していきたいと思います。
というわけで、今回のわきみちは、
博物館 網走監獄の記事です。









博物館 網走監獄 正門・庁舎
北海道は道東、網走の街を代表する施設といえば旧網走監獄、現在の博物館 網走監獄です。
監獄が有名な場所??となるかもしれませんが、れっきとした網走を代表する観光明知になっている場所です。
現在の網走監獄はすぐ近くの場所に移転されており、旧網走監獄は現在は監獄としては全く利用されていません。
しかし、明治に作られた施設内の建物の数々と、北海道開拓の歴史を作ってきた旧網走監獄は、その歴史を現在まで伝え続けてくれている施設なのです。
ではなぜこのような北海道の東の側に監獄が作られたのかなのですが、それは単に犯罪者を収容するだけではなく、いち早く北海道を開拓していかなければならないという明治政府の思惑があったのです。
時は明治時代。
それまでの北海道はというと松前藩などとのやりとりはあったものの、日本の領土というよりかは、北にあるアイヌの人々が生活をするまだまだ未開の地でした。
明治時代になり、政府が急速に近代化していくにあたって、何よりも急を要したのが北海道の開拓でした。
この時代は、世界的には大植民地時代。
アメリカやイギリスなどが、アジア各国に侵出し植民地化していました。
日本も、そういった諸外国の圧力によって国を開いた一つの国。
その時代に日本が危機感を持っていたのは、北にある大国ロシアの南下政策でした。
もしもロシアが樺太から南下してきたとすれば、真っ先に上陸してくるのが北海道です。
この北海道がロシアの手中に入ってしまえば、日本本土も大きな危機にさらされます。
そこで北海道を急ピッチで開拓する必要があったのです。
そんな北海道の開拓をするために北海道に送り込まれたのが、屯田兵という北海道の開拓と警備を担う人々。
そして、囚人でした。
この時代、政治的なイデオロギーが激しく対立しあう時代。
囚人と言っても犯罪を犯した人物だけではなく、政治犯と呼ばれる人々も多くが北海道に送り込まれたのです。
そしてこの旧網走監獄にも多くの囚人が送り込まれました。
その主な理由としては、北海道を横断する中央道路の開削のためです。
囚人たちは、北海道開拓の先兵として、荒れ地を馴らしていく現在のブルドーザー的な役割を担わせたのでした。
未開の地であった北海道。
今でも過酷な寒さや、厳しい自然。
迫りくる野生動物の危機など、その自然の厳しさは言うまでもありません。
その厳しい土地にありながら、驚くほどの短期間での中央道路完成が至上命題とされ、多くの囚人たちがその労働に従事させられたのでした。
道路を作らなければいけない解くことは、何かがあった時には自由自在に移動できません。
また、医療状況も万全ではなく、食糧補給も困難。
そういった過酷な条件での労働は、数多くの犠牲者を出したのでした。
中央道路の脇には力尽きた囚人たちが数多く行き倒れていたのだそうです。
後にそういった人々の躯は低調に葬られ、供養碑も建てられています。
そういった囚人たちの犠牲の上に完成した北海道中央道路。
彼らの功績は、北海道開拓の礎となったのでした。
そんな網走監獄の敷地内には数多くの建物があります。
まず門をくぐって目に入ってくるのが、旧網走監獄の正門です。
正式には網走監獄表門呼ばれるこの門。
大正11年(1922)年に作られたこの正門。
建造自体は受刑者たち自身の手によって完成されました。
100年以上も経つにもかかわらず、現在でもまだまだ使い続けることができるほどの堅牢な造りです。
赤レンガ造りのいかに時代を反映されるような造りのこの門は、その形から将棋の駒型と表現されています。
その正門を抜けた先にあるのが、庁舎の建物です。
元々は旧網走監獄創建時に造られた庁舎は明治42年(1909)にこの建物ですが、現在残っているのはその後大正元年(1911)に再建された二代目の建物です。
平屋建てのこの建物ですが、明治時代末の官庁や学校でよく使われたデザインの特鋼をよく表しています。
輪の建築様式の中に洋風の要素が配置された、和洋折衷の風格ある建物となっています。
アクセス
網走駅から南西に5kmほどの場所にあります。
博物館 網走監獄 正門・庁舎に行ってみた
それでは、博物館 網走監獄 正門・庁舎に行ってみましょう。


小高い丘の上にある旧網走監獄。
駐車場に車をとめると、階段を上っていきます。

囚人たちが収監されるときも出所の時も必ず通らなければいけない鏡橋を渡ります。

こちらが旧網走監獄の玄関扉です。

こちらの扉は二見ケ岡農場旧正門と呼ばれています。
元々は二見ケ岡にあった日本一広大な刑務所農場にあった正門を再現して、博物館 網走監獄の入場ゲートとして現在利用されています。

案内板です。
これだけたくさんの建物が敷地内にあるとは思いませんでした。

チケットカウンターです。
入場料は、少しお高め。

敷地内に入りました。

早速見えてきたのが正門(網走監獄表門)です。
レンガ物とも呼ばれているこの門は、大正8年から5年の歳月をかけて造られました。
もともと網走監獄には木造の正門が用いられていましたが、敷地内の粘土でレンガを製造し、長い時間をかけて造られたのがこの正門です。

その正門の向こうに見えるのが庁舎の建物です。

こちらが庁舎です。
元々は網走監獄の管理棟として使用されていました。
現在は、お土産の販売やインフォメーション、資料展示などに使われています。
紋章入りの破風をのせた正面車寄せや、押し上げ式窓。
木造下見張りなど、この時代の官公庁の建物や学校の建物で陽見られた、和洋折衷の擬洋風建築と呼ばれている建物です。
現在の建物は、火災で焼失した後に再建されたたものです。

建物の前には、これまた趣のある小さな橋があります。
いかがだったでしょうか。
いよいよ旧網走監獄の記事をスタートさせました。
一回で書こうと思っていたのですが、そのボリュームから書ききることができないため、何度かに分けて書いていくこととしました。
明治・大正の趣きを感じられらる網走監獄。
連日のように多くの人々が訪れる有名観光地であることも納得の施設でした。