今はないけれどかつてはあった国。
世界にはそんな国がかなりあります。
もちろん古代に存在した国で今まで続いているという国は稀ですが、この100年内だけを見ても、かつては存在していたのに今はない国もあります。
今回紹介している国は、アラブ連合共和国です。
アラブ首長国連邦ではないの?
いえ、アラブ連合共和国です。
アラブという名前からして中東にあった国だろうなあというのはイメージできるかもしれませんが、それ以上のことはわからないのではないでしょうか。
実はこのアラブ連合共和国とは、現在もなお国名が変わって存続しています。
しかも、2つの国として。
ますますわかりませんよね。
では、今回はこのかつて存在していたアラブ連合共和国とはどのような国だったのか、そして今は何という国なのかということについて紹介していきたいと思います。
というわけで、今回のわきみちは、
アラブ連合共和国
アラブ連合共和国という国を知っているでしょうか。
この国はかつて1958年から1961年までのわずかな間だけ存在していた中東の国です。
ではこの国は一体どこにあったのかというと、現在のエジプトとシリアが一つの国としてアラブ連合共和国を名乗っていたのでした。
そもそも1958年に建国されたアラブ連合共和国ですが、シリア側からエジプトに対して1つのアラブ国家建設をもちかけたことから始まりました。
そもそもシリアのあった地域は、元々はオスマン帝国が長らく存在した地域でした。
第一次世界大戦後にオスマン帝国が分割され、シリアや他の中東の国々にぶんかつされたこともあり、それぞれが歴史的な経緯があって建国されたのではなく、人工的に国境が引かれ作られた国々であったため、どの国も政情的には不安定な状況にありました。
そういった国の内情の隙をついて軍事的にアメリカなどが介入する気をうかがっていました。
シリアがこのような連合国家の提案をもちかけた背景には、そのような政治事情からありありました。
この動きに対しては、両国の民衆からは多大な支持があったため、国民投票でも両国ともに圧倒的な賛成がありました。
そのために、あっという間にこの二か国は連合を組んで、世界に一つの国、アラブ連合共和国が出来上がったのでした。
両国は経済的にリードしていたシリアと、人口の多い巨大な市場であったエジプトとの両者の思惑を満たすことができる連合だったのです。
そして、現在のエジプトとシリアを見たらわかるように、巨大な飛び地国家が誕生したのでした。

アラブ連合共和国が誕生したことでいろいろと懸案事項は出てきそうな感じもしますが、早急な合併を望んでいたシリア側は、エジプトが提示する条件を全て受け入れ、とにかく統合することを最優先ですすめていきます。
エジプトの大統領が新たにアラブ連合共和国大統領にえらばれ、エジプトの首都だった回路が新国家の首都となりました。
合併時の人口や政治上の規模的に優位なことからそうなっていったのでした。
憲法に関しては新国家建設に伴って新たに制定されました。
本来国と国との合併となると長い時間がかかるであろうと思われますが、このような経緯もあってあっという間に国家統合は成し遂げられたのでした。
このようにエジプトが優位になって進められたアラブ連合共和国ですが、シリア地域にあった軍や警察、官僚たちがエジプトの管理下に入っていくことにもなりました。
当初はシリア側はこういったエジプト優位の状況を受け入れていったのですが、そこがこの国の瓦解への亀裂となっていったのです。
このように誕生したアラブ連合共和国ですが、さらにはイエメン王国もアラブ国家連合として合流をしてきました。

このようにアラブ地域に飛び地で出来上がったアラブ連合共和国だったのですが、気が気でないのはそこに挟まれた国なのです。
その中でも特に動きがあったのがヨルダンやイラクといった国々でした。
中東に大きな影響を与えつつあったアラブ連合共和国は、エジプト優位な体制に対するシリアからの反発によって、連合はあっけなく崩壊することとなります。
その後10年間、エジプトは単一でアラブ連合共和国を名乗り続け、自分たちがアラブのリーダーであることを主張し続けますが、1971年になってようやく国名からアラブ連合共和国が消えたのでした。

いかがだったでしょうか。
民族にって国と国とが結びつく。
それは現代社会の中では自然なことではありますが、どちらもが独自の歴史を積み重ねてきているとき。
そして、飛び地のように離れた場所にあるとき。
そういったときには、どちらかが優位に立つのではなく、どちらもが対等に一つの国として立ち上がることができなければ、その瓦解はあっという間に訪れてしまうのです。
しかし、中東にもかつてこのような動きがあったということは、調べてみると驚きでした。