932【人物あれこれ】多くのユダヤ人を救ったということで語り継がれる人物『杉原千畝』

人物あれこれ(Person)
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杉原千畝という人物の名前を知っているでしょうか。
映画にもなったことがあるので有名な人物ですが、同氏の残した功績といえばこれしかないでしょう。
それは、多くのユダヤ人たちの命を救った、東洋のシンドラーと呼ばれる人物であるということです。
自らの地位と、多くの人々の命とを天秤にかけ、多くの人々の命を救ったということで、今もなお世界的にその名前は言い伝えられています。

そのような世界的に名の知られた人物ではあるものの、わたしたちはこの人物についてどれほど知っているのでしょうか。

今回はこの杉原千畝について、映画『杉原千畝 スギハラチウネ』も参考にしながら紹介していきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 東洋のシンドラーと呼ばれる、数多くのユダヤ人を救った杉原千畝とはどのような人物だったのでしょうか。

杉原千畝

杉原千畝とは、かつて外務省の外交官として活躍した人物です。
杉原千畝が生誕したのは1900年の1月1日。
岐阜県の税務官吏だった父親の元に生まれた杉原千畝は、福井県や三重県、愛知県などを転々とし、早稲田大学に入学します。
しかし、学費の支払いが難しくなった杉原地上は、外務省が募集していた官費留学生となって、中華民国のハルピンで留学生として学びます。
ロシア語を主に勉強し、後に外務省の書記生として採用され、ハルピン総領事館勤務を経て、満州国の外交部事務官にとなります。
ロシアに関してはエキスパートであるという地位を早くから築き上げていくことになります。

その後に満州国を支配していた関東軍との間が不和となってしまったため、日本に帰国することになった杉原千畝ですが、次は在ソビエト連邦日本大使館に赴任する予定となります。
しかし、ソ連側から杉原千畝が満州鉄道事件にかかわったとして赴任が拒絶されたために、在フィンランド日本公使館に赴任することになり、さらにはリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となります。
リトアニアの領事館からソ連の動きを注視することになります。
イタリアとドイツと同盟を組もうとしている日本にとっては、ソ連の動きが最も懸案事項だったためです。

戦争はさらに激しくなっていき、隣国のポーランドへは、ナチスによるユダヤ人の虐殺が始めっていました。
そのため、多くのユダヤ人難民がリトアニアに流れ込んでいました。
そんなリトアニアにもソ連が侵攻しようとする動きがあります。
ソ連が侵攻してきたリトアニア内で、ユダヤ人たちが最後に助けを求めたのが日本領事館でした。

杉原千畝はそういったユダヤ人の人々にビザを発給できないか本国に確認を求めますが、条件が満たされないものへのビザの発給は認めないという返答がやってきます。
この本国からの通達に反すれば、杉原千畝自身の外交官の立場が失われてしまいます。
しかし、杉原千畝は多くのユダヤ人たちを救うため、ビザの発給を始めるのでした。

手書きのビザを連日書く杉原千畝。
そんな在カウナス日本領事館でした、そこにもソ連からの強制退去が迫ります。
寝る間も惜しんでビザを発給し続ける杉原千畝。
その後領事館が閉鎖された後は、ホテルの中で。
駅で列車を待つ間にもビザを発給し続け、最後のビザは列車の窓から手渡されたといいます。
多くのビザを受け取ったユダヤ人たちは、その後シベリア鉄道を使って大陸を横断し、ウラジオストクから敦賀に上陸し、日本国内を経て世界各国へと避難することができ、結果的に多くの命が救われたのでした。

リトアニアを去った杉原千畝はベルリンへと入り、その後は東プロイセンへと入ってソ連の情報収集を続けます。
しかし、ソ連だけでなくドイツからもその動きに目をつけられてしまった杉原千畝はルーマニアに送られ、ヨーロッパの戦禍を見続けることとおなります。

1945年に第二次世界大戦が終わり、杉原千畝とその一家はブカレスト郊外で収容所生活を送ることとなります。
1947年にようやく日本の地に戻ってきた杉原千畝を待ち受けていたのは、外交官をやめてほしいという外務省からの通達でした。

外務省をやめた杉原千畝は、様々な職を転々とします。
得意のロシア語を巧みに使いながら、ソ連との交易関係の仕事で活躍します。
その後、1986年に亡くなるまでその功績についてはなかなか陽の当たる場にて語られることはありませんでした。

しかし、2000年代になって再びその功績が脚光を浴びるようになり、多くの人々に知られるようになります。
世界的にも様々な場所でその功績は称えられ続けているのです。

そんな杉原千畝の功績によって現在生き続けている子孫たちは、世界中で4万人以上存在しているとされています。
その大きな功績は、今もなお人々によって受け継がれ続けているのです。

いかがだったでしょうか。
今でこそ多くの人々にその名前が知られるようになった杉原千畝。
しかし、その人生の後半は、多くの人々に知られることもなく、不遇の時代を送っていたことも確かです。
自らの置かれている立場や、時代の流れに背いて、自らの信念に基づいて判断を行うということは難しい場面ということは多々あります。
しかし、私を抑え込んでも、人のためになる選択をするということ。
それは現代のわれわれにも大切なメッセージを伝え続けてくれているのではないでしょうか。