日本本土最北端の場所にある宗谷岬。
日本の北の端を求めてやってくる多くの人でにぎわうこの場所ですが、実際行ってみるとわかるのですが、最北端の岬だけではないのがこの宗谷岬一体なのです。
社会などではおなじみの、樺太が島であることを発見した間宮林蔵にまつわる施設や、すぐそばにある小高い丘の上にも数々の施設やモニュメントなどがあるのです。
そういった数々の施設やモニュメントの中に少し目を惹く建物跡があります。
他のものと比べると少し異質な感じがするのですが、かなり古い小さな建物があるのです。
明らかにかなり長い年季が入った建物であることがわかるこの建物ですが、中に入ることはできません。
この建物の名前は、大岬旧海軍望楼と言います。
その名の通りかつての帝国海軍によって建てられた建物なのです。
ではなぜ、この場所に海軍がこういったものを建てていたのか。
それは、ここが北の端だからなのです。
日本の北の端は常に緊張を強いられる場所であり、常に迫りくる危機を察知し続ける必要がありました。
今回はこの大岬旧海軍望楼がなぜこの場所に建てられたのか、そして今はどのような役割をもってここに残されているのかについて紹介していきたいと思います。
というわけで、今回のわきみちは、
北海道北部の記事です。






大岬旧海軍望楼
大岬旧海軍望楼とは、かつて旧大日本帝国海軍によってこの場所に設けられた望楼です。
望楼とは、遠くを見るためのいわゆる物見やぐらのことです。
現在は使用されていませんが、望楼に登ることはできるようになっており、晴れた日であればサハリン方面がよく見渡せます。
この大岬旧海軍望楼が建てられたのは明治35年(1902)年という現在から120年以上前に建てられ建物です。
望楼というからには、北に対して監視を行うために建てられたものです。
そのころ、明治8年(1875年)の樺太・千島交換条例によって帝政ロシアが領有していた千島列島と、日本が領有していた樺太の南半分とが交換されていました。
条約制定後にロシアは樺太に軍備増強を進めていきます。
樺太全島がサハリンとしてロシア領になっていたこともあり、宗谷海峡は日ロのにらみ合いが続く緊張状態となっていました。
それに対抗し、帝政ロシアの動きを監視するための施設がこの地域には必要でした。
宗谷岬周辺は日本の北の端であり、帝政ロシアとの国境付近にある場所。
そこで旧帝国海軍は、大岬海軍望楼をこの場所に建設することになります。
この場所は宗谷海峡を一望できる場所にあり、そこに造られた望楼からはやってくる敵の状況なども即座にわかる重要な拠点なのでした。
建物の形も船のブリッジをイメージした異色のものであり、石材で組まれた躯体をコンクリートで固めた堅牢なものでした。
そのため、風説の厳しいこの地にあっても当時の面影を今もなお残し続けている稚内市指定文化財となっています。
この望楼からは、帝政ロシアが有していた当時世界最強とも謳われていたバルチック艦隊の動きを意識して、その動きを早期に察知する重要な役割が担われていました。
バルチック艦隊が宗谷海峡を通過することをいかに早く察知し、西のウラジオストクに集結するかを察知することは、対露戦線では非常に重大なことでした。
特に日露戦争が行われていた1904年~1905年にかけては非常に重要な役割を担っていたこの大岬海軍望楼。
日露戦争が終結するとその役割は終わりを迎えます。
しかしその後大正9年にはロシアの沿海州ニコラエフスクで尼港事件が勃発します。
その際には無線通信基地としてこの望楼は活用されました。
また、太平洋戦争の際には対潜水艦監視基地としても活用されました。
稚内市内ではこのように明治期に建てられた建物というのはほとんど現存していない中で、現存する最古の貴重な建物となっています。
そのため、昭和43年(1968)には稚内市の有形文化財に指定されています。
アクセス
宗谷岬のすぐそばにあります。
大岬旧海軍望楼へ行ってみた
それでは、大岬旧海軍望楼に行ってみましょう。

丘の上、宗谷海峡を見渡せる一にこの大岬旧海軍望楼があります。

船のブリッジをイメージして造られた望楼は、監視施設ではあるものの、非常に趣きがある建物となっています。

こちらは望楼から見下ろした宗谷岬と、その奥に広がる宗谷海峡です。
あいにくの天気だったので樺太は見えませんでした。
いかがだったでしょうか。
歴史的な史跡も残る宗谷岬。
ここだけでも見どころがたくさんあるため、全てをじっくりと見るためにはそれなりに時間が必要そうですね。
稚内市でも最古であるこの大岬旧海軍望楼。
明治から国を守るために用いられ続けてきた歴史的な建物をぜひ見に行ってみてください。