日本に数多くあった城。
その城の数々には、城を中心とした町づくりが行われていたのでした。
そのような町を城下町と言います。
現代にもいくつかは残る城下町の数々。
そこに入り込んでいくと、まるでタイムスリップしたかのような雰囲気を味わえるところもあるわけです。
では、そもそも城下町とはどのような目的をもってつくられていったのでしょうか。
まず考えられることは、多くの人々が生活をする場ですね。
有力な大名であればあるほど、そこに多くの人々が集まってきて、大きな城下町が形成されていきます。
その大きさは、その国を治める人物がどれだけの力を持っているかということの象徴でもあるわけですね。
生活の場ということであれば、住環境がそろっており、さらには商売をしていた場所もそこには数多く形成されていったことでしょう。
今回はこの城下町について調べていき、現代にもどのような城下町がのこされているのかについて調べてみることにしました。
というわけで、今回のわきみちは、
城下町

城下町とはその名のごとく、城の周りに形成された町のことです。
主に作られるようになったのは戦国時代のこと。
戦国時代にいた、全国各地の主語や戦国大名、有力な国人たちは、自らの居城を各地に築き始めます。
そういった人物たちが居城を築いた周囲や、山麓などに多くの人々が集められ、街が形成さえていきます。
このように有力な人物たちの城を中心として形成されていった町を城下町と言います。
戦国時代に築かれた城下町では、武士と町人、身分の違いに変わりなく同じ城下町内で生活をしていました。
日本の城下町の特徴としては、ヨーロッパの城下町などとはその様相が違います。
ヨーロッパの城下町は、町全体を覆うような城壁が存在し、町全体が要塞のような雰囲気をもつ城下町となっていました。
そのような城下町とは違い、日本では城下町の周囲を城壁で囲うような城下町ではありませんでした。
特に戦国時代の城下町は、城そのものが山城などのように自然の地形を生かしたものであった場合が多いため、山城直下にある谷筋ごとに町屋が配置されるような変則的な構造になっている城下町が多くありました。
しかし、そのような戦国時代に合って、城下町に要塞のような機能を加え、かつ経済活動を活性化させたのが織田信長でした。
織田信長は、自らの安土城を築くにあたって、城下町を囲う水堀を巡らした惣構(そうがまえ)と呼ばれた形となっていきました。
そして、自らの城下町では経済活動に特権を与え、それを求めて多くの人々がここに集まる、といった好循環を見せていた城下町でした。
さらに戦国期の後、近世の城下町になっていくと、この織田信長が始めた惣構の城を踏襲した城造りが一般的になっていきます。
一重だった堀は、二重三重となったり、水堀だけではなく空堀などもかつようしながら、城下町を含め周りを囲い込んでいきます。
さらに、身分制度がより厳格化されていった時代背景もあって、城下町内であっても身分によって居住区が分離されていきました。
例えば、城郭の周囲の外堀から中心に向かっていくにしたがって、町人の家→足軽の屋敷→中級・下級武士の屋敷→上級武士の家臣屋敷、というように明確に身分ごとにその居住区が配置されるようになりました。
武士の身分だとしてもその中にも細分化された身分がありました。
身分の高い武士であれば、個々に屋敷が与えられていましたが、身分の引き足軽などではあれば武士の身分でありながらも長屋に暮らしていた武士も多かったようです。

日本に数多あった城下町の中でも、今もなお城下町としての様子がよく残されている城下町としては、一乗谷城跡が有名です。
正式には一乗谷朝倉氏遺跡と呼ばれるこの場所では、山麓一体にかつての城下町が復元さています。
一乗谷城の場合、朝倉氏の居城の前にすぐに紺屋などの染物屋といった町屋があったなど、町人と武士とが共に暮らしていた城下町となっていました。
その様子が復元されていたり、多くの演者の人々がその城下町でかつての生活を再現したりしている場所となっているのです。
一乗谷城跡以外にも、岩村城城下町や彦根城城下町などで、かつての城下町跡が今も見られるようになっています。

いかがだったでしょうか。
城の周りにかつて築かれていた城下町。
それも時代によってその構成はいろいろな特徴があります。
そういったいろいろな城下町を訪れることで、その城の時代背景や特徴といったものを発見できるかもしれません。
城めぐりの良さは、城郭そのものだけではなかったのですね。
城めぐりの面白さがこれでまた一つ増えたような気もします。