973【北海道紀行】かの有名な冒険家は、この場所からさらに北に旅立った『間宮林蔵渡樺出航の地の碑』

北海道(Hokkaido)
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おそらく社会の学習でこの人物の名前は聞いたことがあるのではないでしょうか。
その人物の名前は間宮林蔵と言います。
江戸時代を代表する探検家であり、北海道よりさらに北を開拓した人物です。

北海道の北には巨大な島、樺太(サハリン)があります。
江戸時代当時に、この樺太が陸続きではない島であることを確認し、大陸と樺太の間にある間宮海峡を発見したことで今もなお歴史い名前を残している人物です。

この間宮林蔵なのですが、樺太探索に行くために出航したと考えられている地が、北海道北部の宗谷岬近くにあるのです。
その場所を間宮林蔵渡樺出航の地と呼ばれ、そこには間宮林蔵 渡樺出航の地の碑が建てられています。
この地から旅立った間宮林蔵は、200年以上経ってもなお歴史に名を残し続ける偉大な発見をしたのでした。

今回はこの宗谷岬からわずか3kmほどのところにある、間宮林蔵渡樺出航の地の碑について紹介していきたいと思います。

というわけで、今回のわきみちは、

【今回のわきみち】
  • 宗谷岬に訪れたらぜひここにも。道路わきにひっそりとたたずむ間宮林蔵が樺太へと旅立った地に訪れてみよう。

北海道北部の記事です。

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間宮林蔵渡樺出航の地の碑

江戸時代後期の探検家であった間宮林蔵は、この時代に2度にわたって樺太を探検し、それまでは陸続きであると考えられていた樺太が島であること。
そしてその名前が残っていることからもわかるように、大陸と樺太との間にある間宮海峡を発見した人物が間宮林蔵なのです。

初めての渡樺は、文化5年(1808)。
間宮林蔵が当時29歳のことでした。
間宮林蔵と共に、松前奉行支配下役元締であった松田伝十郎と共に宗谷を出発し、樺太の最南端であるシラヌシに到着。
シラヌシから東海岸を調査しながら北上し、西海岸を調査していた松田伝十郎と北部のノテトで合流。
その後、2人は間宮海峡の存在を確認して宗谷に戻ってきます。

さらにその20日ほど後に間宮林蔵は単身で2度目の渡樺に挑みます。
北海道で雇った6名のアイヌを同行し、トンナイで一冬を超します。
春になってさらに樺太を北上し、最北端のナニオーまでを踏破して、樺太が島であることを確認したのでした。
この2度目の渡樺の際には、再びノテトを訪れ、大陸のデレンに向かう交易の一行に同行して、大陸のデレンへと渡ります。
多くの発見を手に、間宮林蔵はその年の晩秋に宗谷に戻ります。

この2度の間宮林蔵の足跡は、間宮林蔵が体験してきた口述を村上貞助に記録させ、2冊の結果報告を残しています。
1つが『北夷分界余話(ほくいぶんかいよわ)』と呼ばれるものであり、間宮林蔵の樺太の調査報告となっています。
樺太の地名や地勢、民俗などがまとめられたものとなっています。
もう1つが『東韃地方紀行(とうだつちほうきこう)』と呼ばれるものです。
これは、間宮林蔵が樺太から大陸に渡り、当時の清国の役所が置かれていたデレンを中心にアムール川下流での調査報告がなされている1冊となっているのです。

間宮林蔵の渡樺の地については、東韃地方紀行の中では”宗谷”とだけ書かれており、厳密に正確な場所はわかりませんでした。
しかし、間宮林蔵の墓石や各地の伝承などから、現在稚内市宗谷村清浜のあたりだと考えられるようになりました。
そして、その場所に間宮林蔵渡樺出航の地の碑が建てられたのです。

アクセス

宗谷岬から西へ3kmほどのところにあります。

間宮林蔵渡樺出航の地の碑へ行ってみた

それでは、間宮林蔵渡樺出航の地の碑へ行ってみましょう。

宗谷岬から西に3kmほどのところに間宮林蔵渡樺出航の地の碑はあります。
車数台であれば停められるスペースがあります。

この写真の左にある細長い碑が、間宮林蔵渡樺出航の地の碑です。
さらにその右側にあるものが間宮林蔵の墓石であると考えられています。

この後ろ側にあるのが間宮林蔵の墓石です。
手前にある石板は後からつけられたもののようです。
ここには、間宮林蔵の出征から、樺太渡航を行い、晩年は幕府の要職に就くなどして多くの功績を残した、といったことが書かれています。

碑のすぐそばには、歌碑も建てられていました。

いかがだったでしょうか。
おそらくこの場所を目的地として、この場所までやってくる人はほぼいないことだと思います。
しかし、江戸当時としてはとてつもなく壮大な冒険をそ、世界史に残るような功績を残した偉大な人物である間宮林蔵。
その生涯にかかわる碑が、宗谷岬のすぐそばに残されているという事実には、歴史好きな人々の取っ手はワクワクする場所なのではないでしょうか。
今でも北海道北部、そしてそのさらに北にある樺太の広大な土地。
これらを開拓しろと言われると、躊躇してしまうほどの自然環境が過酷な地であることは間違いありません。
しかし、多くの人々の積み重ねによって、今の我々は、世界のあらゆる場所の情報をはっきりと知ることができるようになっています。
そんな先人の思いをこの場所から感じられるかもしれませんね。