新紙幣の流通まであと1年あまりとなってきました。
今回の新紙幣で新一万円に決定したのが、現在の日本に続く道筋を作った偉大な実業家、渋沢栄一です。
紙幣に決まった後は、大河ドラマ『晴天を衝け』にも取り上げられ、今や知らない人はいないほどの有名な人物となってきたのではないでしょうか。
この渋沢栄一、資本主義の父とも呼ばれ、現在にもつながる数多くの企業を育てた人物です。
そして、東京証券取引所の前身を誕生させたのもこの渋沢栄一です。
当時の東日本を代表するほどの実業家なのですね。
実はそんな渋沢栄一と双璧をなすほどの大実業家が、西日本にいたのです。
東の渋沢に対して、西の五代。
五代??さて、誰のことでしょうか。
その人物こそ、大実業家 五代友厚なのです。
朝ドラの『あさが来た』や、『晴天を衝け』の両作品で、ディーン・フジオカ氏が演じたことでも思い浮かぶ人が多いのではないでしょうか。
渋沢栄一が東京証券取引所の基礎を作った人物ならば、五代友厚は大阪取引所の基礎を作った人物なのです。
そのため、大阪取引所の前には、五代友厚の銅像が立つほどなのです。
では、この五代友厚とはどのような人物だったのか、紹介していきたいと思います。
というわけで、今回のわきみちは、
五代友厚

五代友厚は、天保6年(1836)~明治18年(1885)の時代に活躍したかつての実業家であり、大阪経済界の中心として活躍した人物です。
生まれは薩摩(現在の鹿児島県)なのですが、そこから大阪経済を立て直すために大阪にやってきて、この地で名を残すまでの人物になったのでした。
当時の薩摩というと、長らく鎖国していた国の中にあって、海外の国々の情報が比較的たくさん入ってくる地域でした。
そういった情報に早くからふれることができた五代友厚は、日本だけではなく諸外国についても考えをもつことができる人物として育っていったのでした。

そして、安政元年(1854)に、ペリーが浦賀沖に来航し、日本はいよいよ世界の激動の渦に巻き込まれていくことになります。
その後、薩摩藩の藩命によって遣英使節団として英国を訪れるとともに、欧州の各地を視察してまわります。
帰国後は、薩摩藩の商い事を担う役割に就任し、実業家としての手腕を発揮し始めることとなります。
討幕派として活躍した五代友厚は、明治新政府の役職である外国事務局判事に任命され、大阪府へと赴任します。
ここから五代友厚の大阪での活躍が始まるのです。
実業家としての手腕を発揮し、大阪の財界人との結びつきを強めていきます。
その功績として最も知られるのが、現在の大阪取引所につながる大阪株式取引所の設立ではないでしょうか。
その他には、大阪商工会議所の前身である大阪商法会議所の設立。
明治維新による時代の大きな流れの中で低迷していた大阪経済を立て直すために、この大阪商法会議所を設立し、そのトップに五代友厚が就任したのでした。
これによって大阪の経済の立て直しを図ったのでした。
さらには、現在の大阪公立大学、その前身の大阪市立大学となる大阪商業講習所を設立したり、大阪を代表する数々の企業の設立にかかわります。
現在の住友金属工業や商船三井、大阪商船や南海電気鉄道など、名だたる企業の数々ですね。

また、実業家としてだけではなく、近畿圏に多くの鉱山開発も手掛けます。
特に、長く放置されていた鉱山などから再び銀や銅などを採りだす精錬技術を海外から持ち込み、再び重要な光明脈を発見して復興を進めていきました。
こういった卓越した手腕の数々によって、東の渋沢、西の五代とまで呼ばれるようになったのでした。(なお、五代友厚の方が渋沢栄一よりも4年早く生まれています。)
しかし、そんな五代友厚を糖尿病という病魔が襲います。
病気の悪化によりなんと49歳という若さで五代友厚はこの世を去ります。
低迷していた大阪経済の渦中に飛び込み、そのピンチを立て直して現在の大阪の基盤を作った五代友厚。
その影響は今もなお大阪経済に息づいているのです。

いかがだったでしょうか。
近年取り上げられることが増えてきたこともあって、徐々にこの名前が知られるようになってきていると思われる五代友厚。
時代が大きく変わるとき、先行きがだれにも見通せないとき。
そういったときに思い切った国のかじ取りができる人物というのは、とてつもない才能ですよね。
大阪には今もなお五代友厚にまつわるスポットが数々あります。
大阪取引所を中心に、そんな五代友厚の歴史にまつわるところをめぐる旅というのも、一つの旅の醍醐味かもしれませんね。
こういった人物を知ることからも旅は広がっていくのです。